創造性をもたらすのは、2つの「余白」である——書評『コンテクストデザイン』
少しうがった見方をすれば、創作は「コピーの失敗」と言えるのかもしれない。あるいは、もともとあった作品を「触媒」として、自分自身をものがたる行為とも表現できる。
designing bookreview「余白があること」と「白紙であること」は同じではない。
何かを書くとき、あるいはつくるとき、何も制限されないまったくの白紙から始まることは、そうそうないはずだ。
どんなテクスト(創作物)も、そこにはコンテクスト(文脈)がある。創作物は多かれ少なかれ、何らかの文脈に立脚するものだ。いかに独創的に思えるものでも、何もないところからは生まれない。豊かなテクストが生まれるためには、肥沃なコンテクストが必要だ。コンテクストとは栄養であり、テクストがその生成物である。
本書『コンテクストデザイン』が問いかけているのは、そのような豊潤なコンテクストをいかに生みだすのか、ということ。本書で語られるコンテクストデザインの手法は多岐にわたる。コンテクストの数だけ、そこから立ち現れるテクストもさまざまだ。そしてそのテクストがまた新たなコンテクストとなり、新たなテクストが紡がれていく。
本書を読むと、世の中に散らばっているコンテクストに、あらためて目を向けてみたくなる。そこで自分はどのようなテクストを綴るのか、自分であればどのようなコンテクストをデザインできるのか? 腰を据えてじっくり考えてみたくなる、そんな一冊だ。
- 渡邉康太郎『CONTEXT DESIGN』通常版
- https://aoyamabc.jp/products/context-design
文脈がなければ何も生まれない
コンテクストデザインとは、それに触れた一人ひとりからそれぞれの「ものがたり」が生まれるような「ものづくり」の取り組みや現象を指す。(p.12)
「創作」という言葉の持つ意味は、時として重い。たとえば『創世記』では、神が7日間で世界を創造した(そのうち1日は休み)とされており、そこには「なにもないところから創り出す」というニュアンスが含まれている。現代に生きる人びとがはたして『創世記』のエピソードにどこまで引きずられているかはさておくとしても、「創作とは選ばれた一部の人間がやることであって、自分には関係のないもの」と考えている人は少なくないはずだ。また、「オリジナリティがあるわけでもないのに、クリエイターを気取るべきではない」という風潮があるのも、ある程度は事実だと思う。
皮肉なことに、何かを創り出す人にとっては承知の事実として、無から何かが生まれることはない。創作という行為は多かれ少なかれ、それまで紡がれてきたものに対する解釈、すなわち誤解、読み違え、妄想、剽窃、あるいはちょっとした付け足しである。一見すると革新的なことであっても、他分野からアイデアを流用・改編しているケースも少なくない。いずれにせよ、なんらかのコンテクスト(文脈)があるからこそ、テクスト(創作)という行為が発生するわけである。
つまり創作とは、ある種の編集作業と似ている。すでにある文脈を読み取り、そこに自分なりの要素を付け加えたり差し引いたりする。多くの場合、それはほとんどコピーと見分けのつかないレベルのものであったり、あるいは単なる劣化コピーに過ぎなかったりするのだが、そのなかから多くの人に影響を与えるテクストが生まれ、それが次の大きなコンテクストを形成していく。
でもその作品について真に語りたい欲求があるとき、人は誤読を恐れない。そこでは他者による作品と自身による解釈は一体化する。この「語り」によって、たんなる即時的「消費」を越えて、読み手は作品とあらたな関わりを結ぶ。そして、その瞬間に読み手は書き手に入れ替わる。(pp.14-5)
少しうがった見方をすれば、創作は「コピーの失敗」と言えるのかもしれない。あるいは、もともとあった作品を「触媒」として、自分自身をものがたる行為とも表現できる。生命がそうであるように、もともと親にあった性質が完全に子へ受け継がれることはほとんどない。しかしだからこそ、生物は進化して多様性を獲得した。コンテクストとテクストの関係もそれと同じだ。受け継がれるときに「エラー(=誤読)」が生まれるからこそ、世界はより多様なものになる。
とはいえ世の中には、誤読を許すものもあれば、一切の解釈違いを許さないようなものもある。あるいは、すでにびっしりと誰かのテクストが刻まれており、参入余地が限りなくないもの、言い換えるなら「余白」が見つけにくいものもあるだろう。
つまるところ本書の提案するコンテクストデザインとは、一人ひとりの「創作」を推し進めようとする一連のたくらみそのものだと言える。テクストを紡ぎたくなるようなコンテクストとはどういうものなのか? 人が自らの「ものがたり」を紡ぐ光景を想像し、それをかたちにすること。相手をただの「消費者」としてみなすのではなく、「参加者」「表現者」として捉えること。コンテクストデザインは、そうした思想設計を持っている。
「受け手」が「語り手」に変わるとき、そこには予想もつかなかったような解釈が発生するものだ。もともとのコンテクストからすれば、それはときとして受け入れがたいものかもしれない。だがそこに参加できるだけの「余白」を設けることが、個人ひいては社会を豊かにすることにつながるのだとしたら——コンテクストデザインが目指すのは、「余白」による自発性の回復とも言い表せられる。そしてそれは、パターナリズムとナッジに溢れた、現代社会におけるひとつのアンチテーゼなのだ。
「弱い文脈」を育むための余白を用意する
コンテクストは、その上に無数のテクストを生みだす。そしてそのテクストが誰かに伝わったとき、それは新たなコンテクストになる。
コンテクストには強弱というものが存在する。
強い文脈は通貨のような普遍的な流通性を備えている。それはある正統性を保証するので、多くの人へ語り掛けることができ、否定されにくい最大公約数としての性質を持つ。ただそれゆえに、個人にとっての特別な意味にはなりにくい。これは「弱い文脈の弱さ」だ。(p.19)
弱い文脈とは、ある個人の解釈や、その作品に結びつけているエピソードを指す。これには流通性や正統性がない。よって単体ではとても弱く、誤読である可能性も高い。しかし弱い文脈にはそれ故の逆説的な強さが備わっている。「弱い文脈の強さ」だ。(p.19)
多くの人が関わるコンテクストは「強く」、限られた人間しか共有していないコンテクストは「弱い」。著者の渡邉康太郎氏はコンテクストについて、一定の支持を受けている強いものを「紐」や「縄」、個人から発せられた弱いものを「一本の頼りない糸」とメタファーを用いて表現している(p.20)。ただしこれは、「強い」コンテクストが正しく、「弱い」コンテクストが間違っていることを意味しない。あくまで性質の違いであり、両者はときと場合によって入れ替わりうる。もともとは頼りない糸でも、いくつもより合わさることでかたい縄にもなれるし、その逆もしかりだ。
「一本の頼りない糸」も、それぞれが気軽に参加でき、テクストを紡ぎたくなるような可能性を持つとも言える。すでにがっちりと構築された「強い」コンテクストと異なり、「弱い」コンテクストは、万人を「読み手」から「語り手」に変えてくれるからだ。
この点でいうと、TwitterをはじめとするSNSは、きわめてうまくデザインされている。そこではいくつものコンテクストが提供され、人びとは自由にそれを引用しつつ、これまで培ってきた経験や知識を踏まえながら、テクストを自分で生み出して投げかけることができる。そしてそのうちのひとつが、また新たなコンテクストとなり、多くの人のテクストがそこに編み込まれ、より強度の高い縄となっていく。Twitterが支持を受けているのは、人間の「創作」のプロセスをきわめてスマートに可視化したことにあるといっていい。
ただ、同時にこうも思う。その忙しなく流れるタイムラインのなかに、はたして本当の「余白」があるのだろうか。何かを「ものがたる」ためのコンテクストはたしかにある。しかしそこに時間的な余裕がなければ、本当の意味で「余白」とは言えないのではないか。特に紡がれたばかりの「弱いコンテクスト」は、いわば赤子のような存在だ。しばらく安全な場所で成長を見守らなければ、健康に育つことは難しい。実際、本書でもSNSは扱われていない。
代わりに本書のなかでコンテクストデザインの例として挙げられているのは、短冊や絵馬だ(p.74)。いくつものテクストが重なることで、「自分もそこに参加してもいい」と思わせてくれるそのシステムは、一見するとSNSと同じように思える。しかし短冊や絵馬は、しかるべき時期や場所でなければ、巡り合うことができないようになっている。ある意味、短冊や絵馬は時間的にも空間的にも区切られており、だからこそ想いをはせる「余白」が生まれるのである。
こう考えると、渡邉氏がコンテクストデザインの「実験」的作品として砂時計をつくったという記述(p.140~)にも得心がいく。現代において、「時間の経過を告げる」という本来の用途だけを考えるならば、より優れたプロダクトは他にもある。半自動的に知らせてくれるタイマーと違い、砂時計は使用者が砂の動きを見守っていないといけない。しかしだからこそ、そこに「余白」が生まれる。時間を測る行為を通して、使用者は忙しない日常から自らを隔離する。
新しいコンテクストとは、強いコンテクストのなかにある「余白」、および時間や空間といった物理的な「余白」を親にして生まれる。ものを語りたくなる場をつくるとともに、新たに生まれたものとじっくり向き合わせてくれるもの、それがコンテクストデザインだ。そして本書は、その最たる例なのである。