「倫理」とは何か?デザインに「普遍的価値」を埋め込むために——倫理学者・児玉聡【連載】デザイン倫理考 #2

「どのような社会や生き方が『よい』のか」を抽象的に考え、それをデザインに組み込む、という姿勢が重要だと思います。

変化し続ける社会の中で、デザインを取り巻く人々の間で「倫理」を議論する場所をつくれないか──そんな問題意識から、designingでは一線級のデザイナーや論者に「デザイン倫理」のあり方を問う連載「デザイン倫理考」を立ち上げた。

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ただ、そもそも「倫理」とは何だろうか?

「道徳」や「法」などとは何が違うのか?

「デザイン倫理」を考えるための土台として、そもそもの「倫理」が意味するところを問うことも必要不可欠なはずだ。そんな意図から、連載第2回では倫理学者の児玉聡に話を聞いた。

児玉は倫理学者として英米道徳哲学史と生命・医療倫理学を専門としつつ、近年はCOVID-19や「予防の倫理学」、ELSI(倫理的・法的・社会的課題、Ethical, Legal and Social Issues)といった現代的な課題への応答も積極的に行っている。そもそも「倫理」を考えることとはどういうことなのか、「倫理」を社会、ひいてはデザインに応用していくうえでの要諦とは——「デザイン倫理」の土台となる問いを氏に投げかける。

児玉聡(こだま さとし)
1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科専任講師などを経て京都大学大学院文学研究科教授。著書に『予防の倫理学』(ミネルヴァ書房、2023年)、『オックスフォード哲学者奇行』(明石書店、2022年)、『COVID-19の倫理学』(ナカニシヤ出版、2022年)、『実践・倫理学』(勁草書房、2020年)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人、2013年)、『功利主義入門』(筑摩書房、2012年)、『功利と直観』(勁草書房、2010年、日本倫理学会和辻賞受賞)など。

「倫理」とは。その“狭義”と“広義”の定義

──「デザイン倫理」を考えるにあたって、「倫理」とは何か?を問わないと土台がぐらついてしまう気がしています。どこまでが「倫理」の範疇で、「道徳」や「法」などとは何が違うのか。今日はそうした“そもそも”の話を伺えればと思っています。

「倫理」という言葉の定義については──「デザイン」という言葉もまたそうであると考えられるように──さまざまな立場や考えがありますが、私は“狭義”と“広義”の意味があると捉えています。

狭義の「倫理」は、「道徳」と同じ意味で使われる場合で、社会全体に共有されている諸々の規範の一つを指します。たとえば「嘘をついてはいけない」「他者に親切にしなくてはならない」といった規範は、倫理的規範にあたります。こうした道徳や倫理的規範は、しばしば「法」と比較して語られ、「法は外面を規制し、道徳は内面を規制する」「法は客観的、道徳は主観的」「法には刑罰があるが、道徳には刑罰がない」といった対比がなされます。

一方、広義の「倫理」とは、倫理的規範に加えて、法律、学校の校則や企業内のルール、マナーなど、社会のあらゆる規範を包括する概念であり、倫理学は、この広い意味での倫理、つまり社会規範全体を批判的に研究する学問です。たとえば、コロナ禍においては、「人前に出るときはマスクをつけなくてはいけない」という規範がありましたが、これを検討することもまた倫理学の領域ということになります。

──「倫理」の主体は、個人ではなく、社会全体やある共通の属性を持つ集団、ということになるのでしょうか?

この点については、「個人道徳」と「社会道徳」の区別を考えると理解しやすいかもしれません。

「個人道徳」とは、個人の理想や価値観に基づくものです。たとえば、マーチン・ルーサー・キングは「白人と黒人が共生できる社会を作りたい」と考えましたが、こうした個人の理想や信念がこれに当たります。個人規範は、ある程度まで各人が自由に持っていても構わないものです。

一方、「社会道徳」あるいは「社会的規範」は、より集団に紐づいたものであり、「個人に対して外部から課されるもの」という性質を持ちます。中には、「法律」のような強制力を持つものも含まれます。

ただ、結局のところ社会とは、個人の集合です。したがって、外部にある社会的規範を内面化することによって個人道徳が形成されることもあれば、主流の個人道徳が変化することによって、新たな社会的規範が生まれることもあります。

──「あらゆる社会的規範は相対的なものである」という考え方もできると思うのですが、倫理学はその点に関してどう考えるのでしょう?

第二次世界大戦後、文化人類学が盛んになり、「それぞれの文化にはそれぞれに独自の社会的規範があり、一概にいい/悪いとは言えない」という相対主義的なものの見方が流行しました。一方、倫理学は、もちろんさまざまな学派や立場はあるものの、どちらかというと普遍的な価値の存在を前提とし、それを追究する傾向があります。

たとえば、「人権」の概念はその典型であり、奴隷制度については、どのような国や時代であっても「悪い」と考えるのが、倫理学における一般的な考え方です。また、欧米の倫理学の教科書では、ナチスによるユダヤ人や障害者の虐殺がよく取り上げられますが、これについて、「それが良いとも悪いとも言えない」という立場を取ることは難しいでしょう。多くの人は、「ナチスの行為は間違っていた」と判断すると思います。

つまり、意見の分かれる問題も多々あるものの、少なくとも罪のない人の殺害や人権侵害などの一部の行為については「絶対的に悪い」と判断できる、という普遍主義的な考え方は、倫理学における一般的な立場であると言えるのです。

「自由」と「強制」のあいだ

──児玉さんはこれまで、「パンデミックの倫理学」や「喫煙と道徳」といった現代的な問題についても、倫理学の視点から応答されてきたと思います。多岐にわたる研究の背景には、どのような問題意識があるのでしょうか?

これまでの私の研究の中心には、「自由と強制」というテーマがあったと言えると思います。

私はこれまで、「どういう行為が正しい/間違っていると言えるのか」という視点で、倫理学の研究を行ってきました。「正しい行為」の一類型には「社会的に許される行為」があり、「人々の自由はどこまで認められるべきなのか」「国家はどこまで人々を強制してよいのか」という「自由と強制」をめぐる問いは、自由主義の時代における大きな問いのひとつであるとも考えています。

たとえば直近では、新型コロナウイルスのパンデミック対応において、外出制限や事業活動の制限といった人々の健康を守るための「強制」的措置の是非が論じられ、個人の「自由」をどこまで制限してよいのかという問題が顕在化しましたよね。他にも、「飲酒や喫煙の自由はどこまで認められるべきか」「安楽死は個人の自由として認められるべきか」といった公衆衛生をめぐる「自由と強制」の問題は、私が継続的に関心を持って研究してきた領域になります。 

──「自由と強制」に関連するトピックとしては、デザインにおいても、「強制」とは言えないまでも、ユーザーを気づかぬうちに不利な方向に誘導する「ダークパターン」が問題視されています。

非常に現代的な流れだと感じます。「昔は」と言うと語弊があるかもしれませんが、以前は自由と強制の問題が、「白か黒か」「0か1か」といった比較的単純な二元論的で捉えられることが多くありました。しかし現代では、ご指摘のように、「強制するわけではないものの、人々の意思決定をある方向に誘導しよう」という発想にフォーカスが当たっている。近年注目されている行動経済学における「ナッジ(*1)」や、「リバタリアン・パターナリズム(*2)」といった概念も、そうした発想に基づくものです。

注釈

*1 ナッジ
ナッジとは、人間の性質や行動原理に基づき自発的に行動するきっかけを提供する手法であり、2008年に米国の経済学者リチャード・セイラー教授と法学者であるキャス・サンスティーン教授らの書籍「NUDGE 実践 行動経済学 完全版」により一躍有名になった理論。

*2 リバタリアン・パターナリズム:
前掲の「ナッジ」と同義で用いられる。

また、コロナ禍において日本においては、外出を禁止するのではなく、自粛を「要請」するという形を取りました。これもまた、「自由」と「強制」の間にあるものだと言えるでしょう。

──「自由」と「強制」の間には、さまざまな段階があると。

こうした状況を理解する上で参考になるのが、イギリスの生命倫理政策のシンクタンクであるナフィールド・カウンセル・オン・バイオエシックスが「パブリックヘルス・エシックス」という報告書の中で示した「インターベンション・ラダー」という考え方です。

このモデルでは、人々の意思決定に対する介入を8つの段階に分けています。最も介入度が低いのは何もせずデータを収集するだけの段階であり、そこから徐々に介入度が高まっていくと、特定の行動にインセンティブをつけたり、逆にディスインセンティブを設けたりする段階があります。たとえば、都市部への自動車の乗り入れに課税する(=ディスインセンティブをつける)ことで、自転車や公共交通機関の利用を促すといった政策は、この段階にあたります。さらに介入度が高まると、最終的には特定の行動を完全に禁止するという段階に至ります。

──倫理学や公衆衛生の議論において、こうした介入はどのように捉えられているのでしょうか?

これについては、さまざまな議論がありますね。たとえば、ファストフード店のセットメニューを設計する際に、デフォルトのサイドメニューをフライドポテトではなくサラダにすることで、より健康的な選択を促そう、といった議論があります。

しかし、こうした介入が本当に意図した効果を生むかどうかは研究が必要です。健康的な食べ物をデフォルトにしたことで、かえって食べ過ぎてしまい、結果的に健康に悪影響を及ぼす可能性もあります。また、より根本的な問題として、人々に知られないような形で人々の行動に介入することをどう考えるべきなのか、という議論もあります。

理想的には、きちんと社会的な合意を取った上で制度を設計していくべきだと思いますが、現実的にそううまくはいかないところが、難しいところですね。

人為的なデザインか、あるいは自然発生的なものか

──本連載のテーマである「デザイン倫理」を考えるにあたって、児玉さんの専門分野から注目すべき問いやトピックはありますか?

パッと思いつくものが2つあります。

1つ目は、「神のデザイン論証」あるいは「デザイン・アーギュメント」と呼ばれる概念です。これは、ウィリアム・ペイリーなどが提唱した古くからある考え方で、簡単に言えば、神を「設計者」、すなわち「デザイナー」として捉える発想です。

ペイリーは、たとえば私たちが時計を見たときに、「誰かがこれを作ったに違いない」と考えるのと同様に、優れた能力を持つ動植物で満たされた自然界にも設計者がいるはずであり、それが神なのだ、と語ります。

一方、ダーウィンの進化論は異なる見方を示しました。進化論は、自然は必ずしも設計されたものではなく、長い時間をかけた変異の繰り返しと自然淘汰の結果として、あたかも設計されたかのように見える優れた能力を持つ生物が残ってきたのだと説明します。つまり、「デザイナー不在のデザインは可能」という考え方です。

──自然淘汰によって、自然と優れたデザインが生まれると。

2つ目の重要な議論は、フリードリヒ・ハイエクによる「設計主義批判」です。ハイエクは、ソ連の5カ年計画のような中央集権的な経済計画を批判しました。彼の主張は、経済には予測不可能な要素が多すぎるため、中央集権的な計画は必ず失敗するというものです。

代わりにハイエクが提唱したのが、「自生的秩序」という概念です。これは、自由市場において安くて良いものが自然と生まれていくように、秩序は自然発生的に生まれるという考え方です。ダーウィンの進化論と少しレベルは違いますが、基本的な考え方は同じですね。

人為的なデザインはどこまでうまくいくのか、あるいは自然に発生するものの方が優れているのか。デザインが失敗した場合に、どう対処するのか。とりわけ社会設計において、こうしたテーマについて考えることは非常に面白いと感じています。

「デザインに埋め込まれた価値や思想」という視点

──デザインにおいては「美しい」「格好いい」といった要素も重視されますが、こうした美的な価値観と「倫理」の間には、どのような関係性があると思いますか?

面白いテーマですね。「真善美」という言葉があるように、ソクラテスやプラトンの時代から、倫理的な正しさ(=善)と美的価値(=美)は一体のものであり、どれか一つでも欠けてはいけないという考え方がありました。つまり、本当に美しいものは同時に倫理的にも正しく、真理を体現しているはずだ、という発想です。

しかし、実際には、美的価値と倫理的価値は必ずしも一致するわけではない、というのが私の考えです。

たとえば先日、あるアパレルメーカーがデザイナーとコラボして制作した子供服が、「性差別的だ」として炎上し、発売中止になるという出来事がありました。これは、倫理的な価値が見落とされて生じた問題であり、美的価値と倫理的価値をいかに両立させるかは、デザイナーにとっての大きなテーマのひとつになると考えています。

また、デザインからは少し外れますが、第二次世界大戦中にドイツ軍が夜中にロンドンを爆撃したとき、多くのロンドン市民が屋根に上って、街が爆撃される姿を見て崇高さを感じたそうです。倫理的でないものを美しいと感じることをけしからんと考えるべきか、という問いは美学と倫理学の接点として、興味深い話題です。

──今日の議論を踏まえ、これからデザイナーはどのようにして「デザイン倫理」と向き合っていくべきか、メッセージをいただけますか?

「どのような社会や生き方が『よい』のか」を抽象的に考え、それをデザインに組み込む、という姿勢が重要だと思います。

たとえば、「ユニバーサルデザイン」には、「誰もが同じものを使える世界観こそが『よい』」という思想が込められていると思いますし、近年はジェンダー的な中立性を意識したデザインも増えてきました。こうした普遍的な「よさ」を追求する姿勢こそが大事でしょう。

特に近年では、AIなどの新しい技術の急速な発達により、「倫理の空白」と呼ばれるような状況が発生しています。たとえばゲノム編集など、そもそもこれまで規制をする必要のなかったようなことが技術的に可能になっており、法整備が追いついていないのです。加えて、年々災害リスクが高まる中で、有事の際の危機管理をどうデザインするべきか、というテーマも浮上しています。

このような状況下においては、単に法律に従うだけでは不十分であり、法律を超えて“考えること”が重要です。「倫理」とか「正義」というとやや難しいかもしれませんが、私たちが普遍的に目指すべき価値を一人ひとりのデザイナーが考え、つくっていくことが重要なのではないでしょうか。

児玉聡(こだま さとし)
1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科専任講師などを経て京都大学大学院文学研究科教授。著書に『予防の倫理学』(ミネルヴァ書房、2023年)、『オックスフォード哲学者奇行』(明石書店、2022年)、『COVID-19の倫理学』(ナカニシヤ出版、2022年)、『実践・倫理学』(勁草書房、2020年)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人、2013年)、『功利主義入門』(筑摩書房、2012年)、『功利と直観』(勁草書房、2010年、日本倫理学会和辻賞受賞)など。

Credit
執筆
藤田マリ子

1993年生まれ、京都大学文学部卒業。株式会社KADOKAWAにて海外営業、書籍編集に携わった後、フリーランスを経て、2023年に株式会社Nodesを創業。書籍やウェブ媒体のコンテンツ制作、ブランディング・マーケティング・採用広報支援を手掛ける。代々の家業である日本茶専門店・東京繁田園茶舗(1947年創業)の事業開発も行っている。
趣味は競技ダンス、ボードゲーム、生け花。日本ソムリエ協会認定ワインエキスパート。2歳児子育て中。

編集
小池真幸

編集、執筆(自営業)。ウェブメディアから雑誌・単行本まで。PLANETS、designing、CULTIBASE、うにくえ、WIRED.jpなど。

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