「合理的配慮=やさしさ」ではない。アクセシビリティの創造性──キュレーター/プロデューサー・田中みゆき【連載】デザイン倫理考 #3

日本では、障害のある人への対応がすぐに「やさしさ」と結びつけられる傾向がある。「合理的配慮」も、そんな残念な例の一つだ。誰もが持つ当たり前の権利であることが、日本では「配慮してあげるもの」と捉えられがちだ。

design ethics

変化し続ける社会の中で、デザインを取り巻く人々の間で「倫理」を議論する場所をつくれないか──そんな問題意識から、一線級のデザイナーや論者に「デザイン倫理」のあり方を問う連載「デザイン倫理考」。

第3回は「アクセシビリティ」という視点から「デザイン倫理」を考える。

2024年、事業者による障害のある人への「合理的配慮」の提供が義務化された。こうした状況下、デザイナーはいかにして「アクセシビリティ」と向き合うべきなのか?

この問いについて考えるべく寄稿してもらったのは、キュレーター/プロデューサーの田中みゆきだ。

「障害は世界を捉え直す視点」をテーマに、表現の捉え方を障害当事者含む鑑賞者とともに再考してきた田中。2024年には『誰のためのアクセシビリティ? 障害のある人の経験と文化から考える』(リトルモア)も上梓した。

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「アクセシビリティ」は「やさしさ」によって仕方なく整備するものではない──根底にある「エイブリズム」の問題から、「創造性を広げる」アクセシビリティの可能性まで論じてもらった。

田中みゆき
「障害は世界を捉え直す視点」をテーマに、カテゴリーにとらわれないプロジェクトを企画。表現の⾒⽅や捉え⽅を鑑賞者とともに再考する。2022年ニューヨーク⼤学障害学センター客員研究員。主な仕事に、「ルール?展」(21_21 DESIGN SIGHT、2021年)、「⾳からつくり、⾳で遊ぶ。わたしたちの想像・創造を刺激する『オーディオゲームセンター + CCBT』」 (シビック・クリエイティブ・ベース東京、2024年)など。主な書籍に、『誰のためのアクセシビリティ?』(リトルモア)、『ルール?本 創造的に⽣きるためのデザイン』(共著、フィルムアート社)がある。

アクセシビリティの根底にある「エイブリズム」の問題

ここ数年、デザインの世界でもようやく「アクセシビリティ」という言葉が少しずつ聞かれるようになってきたと感じる。それでも、「車椅子のための設備を整えること」程度のイメージしか持っていない人もまだ多いかもしれない。実際には、もちろんそれだけではなく、視覚に障害のある人に向けた点字ブロックや文字情報の音声読み上げ、聴覚に障害のある人に向けた音声の字幕化、認知的な障害のある人に負荷のかからない環境のデザインなど、多様な手法が存在する。つまり、「アクセシビリティ」とは、デザインにおいてこれまで想定されていなかった人々が何らかの代替的な方法でアクセスできるようにすることと言える。

わたしも活動を始めた頃は、この前提に特に疑問を感じることなく受け入れていた。そして、このような形でのアクセシビリティも、社会には依然として必要だ。なぜなら、社会はマジョリティの価値観にもとづいてデザインされてきたし、今もそうあり続けているからだ。しかし次第に、「障害のない人がデザインしたものを、障害のある人がアクセスできるようにする」という前提自体が、障害のある人を“足りない”存在と見なす価値観を含んでいるのではないかと考えるようになった。この構図が続く限り、マジョリティの価値観や美意識によってデザインされた社会が変わることはない。そしてそこには、含まれない人たちが必ず存在する。

「障害があるのだから、“健常者”と同じことをするのは難しい」「ましてや作り手になるなんて」――多くの人は無意識のうちにそう信じ込んでいる。だからこそ、障害のある人が障害のない人と同じことをするだけでも、過剰に感動する。または、「障害がある代わりに特殊な能力を持っているはずだ」と勝手な期待をする。その根底には、障害のある人を“欠けた”存在と見る価値観がこびりついている。このように、障害のない人の価値観にもとづいて障害のある人を劣った存在と見なすことを「エイブリズム(Ableism)」という。エイブリズムは必ずしも明確な差別の形を取るわけではなく、時には賞賛という形を装って再生産される。

社会のほとんどのものは、障害のある人を前提にデザインされていない。障害のある人に向けられたものがあるとすれば、医療やリハビリ、福祉といった領域に結び付けられ、障害のある人の“欠けた”機能を補完するような、味気ないデザインが当たり前とされてきた。そこには競争もなければ、注目を集めることもない。だから、多くのデザイナーにとって、アクセシビリティは魅力的な領域に映らなかったことだろう。誰もが使いやすいものをデザインする「ユニバーサルデザイン」の概念も、ニーズを最大公約数的に集めたもので、デザイナーとして創造性を発揮する領域とは見なされにくかった。近年では社会課題への高まりとともに、 “ソーシャルグッド”な領域として認識されつつあるかもしれない。それでも“一般的な”領域とは別の領域と見なされていることに変わりはない。

「配慮」と「権利」の違い

近年、世界における障害の認識の変化を受け、日本の状況も少しずつ変わってきた。2006年に国連で批准された障害者の権利に関する条約(障害者権利条約)では、障害のある人が障害のない人と同等に社会に参加する権利を守るため、文化やスポーツ、教育などの領域を超えて「アクセシビリティ」という言葉が繰り返し用いられている。同条約の批准に向け、日本でも障害者に関する法整備が進められた。その一つが、2013年に成立し、昨年改正された「障害者差別解消法」である。この改正により、障害者への合理的配慮が、公的機関だけでなく民間事業者にも義務付けられた。

日本では、障害のある人への対応がすぐに「やさしさ」と結びつけられる傾向がある。「やさしい街づくり」「心のバリアフリー」などの表現にもそれが滲み出ている。「合理的配慮」も、そんな残念な例の一つだ。誰もが持つ当たり前の権利であることが、日本では「配慮してあげるもの」と捉えられがちだ。この根底には、エイブリズムと、しばしばパターナリズム(父権的支配)が絡んでいる。パターナリズムとは、本人に意思決定能力がないと見なし、周囲が代わりに決めることを指す。例えば、障害のある人が意思疎通できるにも関わらず、支援者に話しかけるといった行為は、その典型的な例だ。パターナリズムは「自己決定」の機会を奪うだけでなく、その人の存在をなかったものにしてしまう。

こうした社会の変化を「そういう時代だから仕方ない」と苦々しく語る声を耳にする。しかし、わたしはそうではないと思う。障害のある人は、ずっと以前から当たり前に存在してきた。ただ、多くの人の目に触れることなく、彼らの権利が社会で無視され続けてきただけなのだ。近年の法整備や他のマイノリティの権利擁護の動きなどの影響を受け、こうした不都合な事実がようやく可視化されつつある。それにもかかわらず、マジョリティ側から「特別扱いはズルい」といった声が上がることがある。しかし、それはこれまで積み重ねられてきた不平等を省みない反応に過ぎない。実際、自分たちに有利なルールのもとで守られてきたのは、マジョリティの方なのだから。

「全体」と「個」を分けて考えること

アクセシビリティは「公平に社会に参加することを実現するためにある」と考えれば、単に障害のない人と同じようにアクセスできることだけでなく、「どうアクセスするかを選択できること」、さらには「使わない/支持しないことも選べること」も保障されているべきだ。しかし、「配慮してあげる」という価値観のもとで提供されていると、ユーザーから改善すべき点を提案されると“文句”と受け取ったり、感謝という見返りを期待したりしてしまう。この背景には、アクセシビリティを「受け手とともに作るもの」ではなく、「あらかじめ用意して提供するもの」として捉える意識がある。日本のアクセシビリティは、まだこの段階に留まっていると日々感じる。愛想を振りまかないと与えられない権利は、そもそも権利とは言えない。

また、アクセシビリティの設計や実装が難しいのは、 “障害者”は一枚岩ではなく、同じ障害があっても人によって求めるものが異なることが多い点にある。例えば、聴覚障害のある人に対して、音声情報に日本語字幕を付けることは障害の特性にもとづいた一般的な対応として有効だ。しかし、同じ聴覚障害者であっても、母語が手話か日本語かによって、どの方法が適切かは異なる。手話が第一言語の人にとっては、日本語の字幕よりも手話通訳の方が自然な情報伝達手段となる場合もある。それに限らず、障害とともに生きてきた期間や育った環境、教育、仕事、交友関係などによって、その人の障害の受容や世界の捉え方、コミュニケーション方法も異なってくる。そのため、障害特性に応じて「全体の土台を整える環境調整」と「個別の違いに対応する柔軟な仕組み」の両方を分けて考えることが重要だ。

さらに、アクセシビリティは障害のある人のアイデンティティの問題と深く関わっている。例えば、障害のある人の中には、障害者コミュニティの文化や生活様式を大切にしたい人もいれば、障害のない人たちと同じものを楽しみたいという人もいる。前者にとっては、障害のない人が作ったコンテンツ自体が通用しないこともあるし、後者は障害のある人のための特別なコンテンツよりも、一般向けのものにアクセシビリティが後付けされる方を望むかもしれない。また、障害を際立たせるような機能やデザインは求められないかもしれない。このように、アクセシビリティは単なる「補助」ではなく、アイデンティティや文化の問題とも密接に絡んでいるため、一律の解決策ではなく、多様なアプローチが必要となる。

「体験のデザイン」として考える

ここ数年のAI技術の進化により、特に情報コンテンツの領域では、障害のある人が自分に合ったアクセシビリティを選択できる時代が近づいている。しかし、現在はまだ過渡期であり、アナログとデジタルがうまく接続されていない状況だ。例えば、劇場で字幕表示デバイスを使おうとしても、周囲の観客から「眩しい」「邪魔だ」といった苦情が寄せられ、限られた席でしか利用できないケースがある。実現できるテクノロジーはあっても、心理的な障壁によりアクセスが十分に担保されていない例だ。また、ではデバイスではなく日本語字幕付きの映像を見たくても、上映時間が早朝や平日の日中など、一般的なニーズの少ない時間帯に設定されていたり、短期間しか上映されないという、制度的な障壁もある。このように、せっかく字幕付き映画が制作されても、提供する側に想像力や理解がないことで、行き渡らない状況を生んでしまっている。

これらは、「体験のデザイン」の失敗と言える。アクセシビリティを担保したモノやコンテンツが用意されても、それを届ける過程すべてにおいてアクセシビリティが担保されなければ、必要とする人には届かない。あるいは、届ける側は「提供しているつもり」でも、実際にはニーズに適していなかったり、想定しない別の要素に阻まれてしまう。アクセシビリティは、業界の規範や習慣などを超えて多分野・多職種が連携してなければ、上手くつながっていかないのだ。これは、従来のUI/UXの領域をさらに視野広く捉え、社会全体の仕組みとして再設計する必要がある課題だ。

アクセシビリティは創造性を広げる

デザイナーの中には、アクセシビリティがクリエイティビティの妨げになるのではないかと懸念する人もいる。あるいは、「これまでの作り方を改めないといけないのでは」と身構える人も少なくない。しかし、それは既得権益の恩恵を受けてきたマジョリティの発想だ。以前、映画や映像の性的な場面で俳優と監督の間で調整を行う「インティマシー・コーディネーター」と話す機会があった。その際、「インティマシー・コーディネーターは作品を検閲するためにいるのではなく、関わる人たちが安全に現場に関わることで、より現場のクリエイティビティを高める役割を担っている」と説明して頂いた。アクセシビリティもまさに同じで、より多様な人々に開かれた環境を作ることで、創造の幅が広がるのだと私は考えている。

実際に、アップルなどの企業は、社会全体がアクセシビリティに注目する前から、それを「特別な人への支援」ではなく、「自分たちのデザインを進化させる要素」として捉え、成功を収めてきた。例えば、アップルが2009年にiPhone3GSに搭載したVoiceOverは、視覚障害者向けのスクリーンリーダー(画面の情報を音声で読み上げる機能)だが、結果的に「音声で操作できるUI」という新たなUXを生み出した。この技術は、後のSiriなどの音声アシスタントの基盤としても発展し、広く使われる技術となった。他にも、Live Captions(リアルタイム字幕)やApple WatchのAssistive Touch(画面に触れずにジェスチャで操作できる機能)など、特定のニーズから生まれたアクセシビリティが、最終的に他の多くの人たちにも支持されるという商品開発のあり方は、今やアップルのアイデンティティのひとつにもなっている。このように、アクセシビリティは単なる“支援”ではなく、創造的な可能性を広げるものなのだ。

新たな方法を取り入れることは、障害のない人たちが慣れ親しんできたクリエイティブの作法とは異なるものかもしれない。しかし、恐れずに既存の枠を超えて多様な視点を取り入れることで、これまで想像もしてこなかった人々とともに、新しい文化と価値観を創り出すことができる。それは、既存の枠組みの中で同じ相手と競争を繰り返すよりも、長期的に見ればずっと持続可能で、多様な創造性を育む未来へとつながっていくはずだ。

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編集
小池真幸

編集、執筆(自営業)。ウェブメディアから雑誌・単行本まで。PLANETS、designing、CULTIBASE、うにくえ、WIRED.jpなど。

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