「人間中心設計」への誤解。デザイン倫理を“他人事”にしないために——コンセント・長谷川敦士【連載】デザイン倫理考 #1

広義の「デザイン」は、デザイナーだけではなくすべての人が身につけるべきスキルであり、マインドセットになっていく。そして、デザインが社会の中で果たす役割が大きくなればなるほど、そこには高い倫理観が求められるようになります。

デジタルテクノロジーの社会的影響力のさらなる高まりが見られる昨今、デザイナーの中でも「デザイン倫理」の重要性が語られることが増えている。

変化し続ける社会の中で、デザインを取り巻く人々の間で「倫理」を議論する場所をつくれないか——そんな問題意識から、designingでは新たに、一線級のデザイナーや論者に「デザイン倫理」のあり方を問う連載「デザイン倫理考」を立ち上げた。

連載第1回に話を聞いたのは、コンセント代表取締役社長の長谷川敦士。

90年代後半からWebデザインに携わりはじめた長谷川は、国内におけるインフォメーションアーキテクトとしてUXデザインの先鞭をつけ、「開拓者」と言っても過言ではない実績を重ねてきた。

「Design by People」で、社会に創発を実装する──コンセント・長谷川敦士
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そして、昨今はダークパターンやデザイン倫理に関する議論や発言にも積極的に取り組んでいる。

「『人間中心』のデザインを取り戻さなければならない」──「ヒューマンセンタード(人間中心)」から「プラネットセントリック(地球中心)」なデザインへの移行が叫ばれる中、「人間中心」を志向する氏の真意とは。

曖昧で、軽視されがちな「デザイン倫理」

──長谷川さんは「デザイン倫理」をめぐる昨今の状況について、どのように見ていますか?

「デザイン倫理」という言葉自体はよく聞かれるようになっていますが、その定義が曖昧なままになっている印象があります。「倫理的なデザインとは何か」がしっかりと定義されないまま、「なんとなくいいことをしている」ことが倫理的なデザインだと考えられているような気がしています。

たとえば、私たちが生み出す人工物、別の言い方をすれば「デザインによって生み出されるもの」が「倫理的であるかどうか」、あるいは「『倫理的なデザイン』とは何か」という問いを考えるためには、「技術哲学」と呼ばれる分野の議論も踏まえなければならないと考えています。そういった問題意識から、最近では『技術哲学講義』(丸善出版, 2023)の訳者の一人であり、テクノロジーの哲学を探究されている七沢智樹さんともよく議論しています。

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──日本における状況はいかがでしょう。

日本ではデザインだけの問題でなく、依然としてビジネスの世界における倫理観がとても低いと感じています。個人レベルではとても倫理的な人でも、ビジネスの話になると「会社が生き残っていくためには、本音と建て前をうまく使い分けなければならない」と、非倫理的な決定を下すことがある。そして、周りにいる方々も「それはしょうがないよね」とその決断を許容し、そのことに問題意識を抱いていないケースが多いように感じているんです。

世界的には、職種を問わず従業員たちが企業を積極的に選んでいます。企業に倫理的な問題があり、それを指摘しても是正されないようであれば、従業員たちは別の企業に移る選択をする。しかし、日本では多くの人が「うちの会社のここが問題だと思う」と言いながら、その会社にい続ける人が多いように感じています。

これはデザイナーに限った話ではありませんが、本来、所属している企業が倫理的な問題を抱えており、それが許容できないのであれば、その会社を離れるという選択をすべきではないでしょうか。そういった人が増えていけば、経営陣も「これでは顧客だけではなく、従業員も離れてしまう」と改善に向けたアクションを取りますよね。

もちろん、企業の倫理的な問題を是正するのは経営陣の責任ですが、従業員にも責任の一端はあるのではないかと考えています。倫理的な問題があり、そのことに対して従業員が文句を言いながらも、その会社で働き続けてしまうと、会社は変わりません。

株式会社コンセント 代表取締役社長 / インフォメーションアーキテクト 長谷川 敦士(撮影:今井駿介)

「人間中心設計」は“人類中心の思想”ではない

──では、長谷川さんご自身は、どのようなデザインが「倫理的」だとお考えですか?

私が「倫理的」と言うときは、まず、「人のためになっている」という部分にフォーカスをしていることが多いですね。

「ヒューマンセンタード・デザイン(人間中心設計)」という言葉は、昨今は「人間だけが良ければいいのか」「他の生命体や環境全体のことも考えてデザインすべきだ」と批判の対象になっています。ですが、実は「人間中心設計」という概念に本来そうした含意はありません。

──どういうことでしょう?

「ヒューマンセンタード・デザイン」という発想は、決して人間以外のリソースをどう使ってもよい、と考えるものではありません。そもそも80年代から90年代にかけて、技術や製品、あるいはビジネスを中心に物事の設計が進んでいたことに対する反省を込めて、「人間に合わせたデザインが重要だ」と「人間中心」という言葉が注目されたという経緯があります。

たとえば、循環経済について考えるにしても、環境の保全について考えるにしても、最終的に人が関わることを考えれば、しっかりと対象者を見てコミュニケーションをデザインしなければならないでしょう。つまり、環境保全や他の生命との共生といったテーマに相反するものではないんです。

一方で、批判の対象となっている“人間中心”的な考え方は、「アンソロポセントリズム(Anthropocentrism)」と呼ばれています。訳すと「人類中心主義」となり、これは人間が地球上の中心的存在であるとする思想で「その他の生命や環境は人類の存続のためならば犠牲にしてもよい」とする、まさに人類中心の思想です。

こういった誤解を避けるため、人間中心設計、ユーザー中心設計を提唱したD. A. ノーマン博士は、近年では「人間性中心デザイン(Humanity Centered Design)」という呼称を提唱しています。

──「人間中心設計」は誤解されていると。

そして、「人間中心設計」になっていないデザインはまだまだ多いように感じます。たとえば、「ペルソナ」という概念を生み出したことで有名なアラン・クーパーの弟子にあたり、UXデザインのスペシャリストであるキム・グッドウィン氏は、2019年、“Bring Back Human-Centered(人間中心を取り戻せ)”と題した講演をしていました。

いわく「UXはデザインだけではなく、ビジネスにおけるすべての意思決定の総和として生み出される」。つまり、あるプロダクトのコンセプトメイキングから始まり、営業戦略や広報戦略など、事業に関わるすべての判断によってユーザー体験はつくられている。そして、デザインが「ヒューマンセンタードである」ということは、何よりも重要なことであり、「私たちデザイナーの仕事とは、すべての意志決定が『ヒューマンセンタード』になされるようにすることなのではないか」と言っているんです。

──むしろ「人間中心設計」が徹底されていないことが問題、ということでしょうか?

はい。グッドウィン氏の言葉は、現状では多くの経営的な意思決定が「ヒューマンセンタード」にはなっていないことを示唆しています。たとえば、多くの企業がミッションやビジョンを掲げていますよね。そのどれもが「ユーザーのため」あるいは「社会のため」といった内容ですが、グッドウィンは「現状では『例外事項』ばかりが目立っている」と指摘します。

つまり、「世のため人のため」とミッションやビジョンを掲げながら、そのミッションやビジョンと利益を天秤にかけて、「たまには例外もある」と後者を優先する企業が多いと言っているわけですね。グッドウィン氏は「すべての意思決定がユーザーのため、ひいては人のために下されていないこの現状を、まずは変えていかなければならない」と主張しているんです。

デザインの責任、専門家の責務

──そうした問題意識から、長谷川さん自身がこれまで取り組んできた活動についてもお聞かせください。

私は、2005年に設立されたUXデザインを推進するNPO「HCD-Net(人間中心設計推進機構)」に、2007年から理事として関わっています。2016年に副理事長に就任し、そこからこの団体において、デザインにおける倫理の問題に取り組んでいます。

──明確に「デザイン倫理」というキーワードを意識されるようになったのはいつ頃のことでしたか?

デザインの社会における役割については常々意識してきましたが、2010年以降、特に「ナッジ(nudge)」について考えるとき、デザイン倫理は意識していました。この図は、私がよく引用する「各国における脳死判定された際の臓器提供の意思表明率」についての2003年の研究結果です。2012年に開催したWorld IA Day Tokyoというイベントにて登壇していただいた現滋賀県立大学准教授の山田歩先生に、解説していただきました。

ナッジ(nudge:そっと後押しする)

行動科学の知見(行動インサイト)の活用により、「人々が自分自身にとってより良い選択を自発的に取れるように手助けする政策手法」(参考

このグラフを見ると、デンマークからドイツまでと、オーストラリア以降の国々でははっきりと差が出ていますよね。この差は何から生じているかというと、「デザインの違い」なんです。

たとえば、日本においては運転免許証の裏にオプトインのチェックボックスが付いていますよね。臓器提供をする意志がある人がチェックを入れる仕組みになっており、これはデンマークなどの意思表明率が低い4カ国と同じ仕組みです。対して、オーストラリアなど意思表明率が高い7カ国の免許証に付いているチェックボックスは、オプトアウトなんです。つまり、「臓器を提供する意思がない人がチェックを入れる」仕組みになっている。逆に言えば、チェックを入れていない人は「臓器を提供する意思がある」と見なされ、それがこの高い「意思表明率」につながっているわけです。

このことが示すのは、とても重要な問題であっても、私たちは「デフォルト」のままにしてしまいがちだということです。ここから、デザインの責任の重さを感じてもらえると思います。もちろん、この7カ国の決定は法律レベルのものなので、一人のデザイナーの独断で決まっているわけではありません。ですが、一つのチェックボックスのデザインが臓器提供という非常に重要な意志決定を左右しうるという意味において、デザインの意味を示す事例だと言えます。

──2010年頃から「デザインの責任」に関して既に各所で論じてきたのですね。

そしてHCD-Netの活動の一環として、人間中心設計を実施するにあたって依拠すべき4つの倫理規範を策定し、2022年4月に発表しました。

Human Centered Design(HCD)専門家 倫理規範
https://www.hcdnet.org/archives/015/202205/HCD%E5%B0%82%E9%96%80%E5%AE%B6%E3%81%AE%E5%80%AB%E7%90%86%E8%A6%8F%E7%AF%84%20%E7%AC%AC1%E7%89%8820220227.pdf
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中でも私が特にこだわっているのは、「成果物についての倫理規範」です。その内容を簡単に言えば、「他者がデザインしたものについても、それが人間中心設計になっていなければ専門家として指摘すべき」ということになります。これはグッドウィン氏に大きな影響を受けていています。「それが目に見えるものではなかったとしても、専門家として組織の意思決定のすべてが『人間中心的かどうか』に目を光らせなければならない」ということです。

他にも「調査活動についての倫理規範」や「研究活動についての倫理規範」などを定め、業界全体に「人間中心設計とはどうあるべきか」を定め、広げる活動をしたり、ダークパターンに関する啓発活動をしたりしています。

──さまざまなアプローチで、「倫理的なデザイン」の普及に取り組んでいるのですね。

それからアート作品を通じても、倫理的な問題にアプローチするさまざまな実験をしています。私は武蔵野美術大学の教員でもあるのですが、大学ではトランジションデザインの研究をしています。「トランジション」とは「遷移する」という意味です。「トランジションデザイン」とは「社会課題を解決し、社会を変えていくためのステップそのものをデザインすること」を指します。

その中で、トランジションデザインの手法でプライバシーや個人情報に関する課題にアプローチする取り組みを、2023年の夏に実施しました。参加者の人たちと、最終的には提言書やレポートといった形ではなく、スペキュラティブデザインと呼ばれる、思考や議論のきっかけを生み出すためのアート作品として制作しました。

このプロジェクトでは、チームごとに作品をつくりました。パートナー同士で遺伝子を融合させられるようになった世界の生活の姿を描いたり、個々人がチップを埋め込んで個人認証を行う世界で、それを逃れる特区に行く際に税関で行う手術機具をつくってみたりという形で展示を行いました。

この作品を題材に、プライバシーの専門家や、倫理を専門とする哲学者のみなさんと対話を実施。作品化することで、思考実験を越えた、その先の議論を行うことができました。ここでは、倫理的問題に対して、スペキュラティブデザインがどのように機能するのか、そして、それをアーティストや研究者が行うだけでなく、参加する個人が行うことでどのような人々の意識変容が起こりうるのかを検討しました。

武蔵野美術大学における、トランジションデザインの手法でプライバシーや個人情報に関する課題にアプローチする取り組みの中で制作した作品の一つ

「アイデアが先」ではなく、技術やデザインが思考をつくる

──ここまでお話しいただいた問題意識やご活動遍歴を踏まえ、いま、すなわち2024年現在に「デザイン倫理」に注目することの意味を、どうお考えでしょうか?

私がデザイン倫理に関心を寄せているのは、社会においてデザインの重要性が高まっているという認識を持っているからです。広義の「デザイン」は、デザイナーだけではなくすべての人が身につけるべきスキルであり、マインドセットになっていく。そして、デザインが社会の中で果たす役割が大きくなればなるほど、そこには高い倫理観が求められるようになる。

デザインや技術を、ビジネスアイデアを実現するための「手段」だとする考え方もあります。しかし、冒頭でも少し「技術哲学」について触れましたが、実際には私たちのアイデアや行動は技術からかなりの制約を受けているわけですね。

──アイデアが先にあるのではなく、技術が先にあるということですね。

はい。たとえば、この20年でスマホやSNSが急速に普及し、社会の様相は大きく変化しました。20年前に現在の状況に即したビジネスを考えられたかというと、難しいでしょう。つまり、技術とは私たちのアイデアを実現するためのものではなく、私たちのアイデアの基盤になっているものだといえます。現在の技術やその発展に伴って進化してきたデザインが、私たちの思考、価値観、あるいは倫理観を形成していると考えるべきです。

スマホやSNSの登場は、私たちの思考に大きな影響を与えました。そして、昨今著しい進化を遂げているAIはスマホやSNSと同等、またはそれ以上のインパクトを社会に与えうるものです。AIの進化によってさまざまなビジネスチャンスが生まれるのはたしかですが、同時にさまざまな課題も確実に生まれます。

私たちはこれからの社会を設計していくうえで、どんな課題が生まれ、それをどう解決していくのかを想像していかなければなりません。そして「いかに社会をデザインしていくか」を考えるうえで、倫理は欠かせない要素だと捉えています。

──なぜ「倫理」という論点が浮かび上がるのでしょう?

この問題を考えるうえで注目すべきなのが、「存在論的デザイン」という視点です。一般的に、私たちはデザインをする主体は人間だと考えます。でも、たとえば最初にヘッドフォンをデザインした人は、すでに存在していた音楽プレイヤーがあったからそれを聞くためのヘッドフォンをデザインできました。あるいは、音楽がコンテンツとして流通しているからこそ、ヘッドフォンというプロダクトをデザインしようと考えたわけです。

私たちはゼロから何かをデザインしているのではなく、デザインされたものによってつくられた環境から影響を受け、その環境に適したものをデザインし、そうして生み出されたものがまた環境を変える……そんな円環が存在しているわけです。これが存在論的デザインという考え方です。

そして、この存在論的デザインを、さまざまなフィールドで実践していった結果生まれる、多様な世界は「多元的世界(Pluriverse)」と提唱されています。全世界に通用する一つのプロダクトをデザインすることではなく、国や地域、あるいはさまざまなコミュニティといった、個別の集団を取り巻く環境を捉え、その環境に適したデザインを重視する考え方を指します。

私は、どうやったらさまざまな現場で実践が行われ、多元的世界が実現する世の中にトランジションできるのか、を考えています。

──デザインは人の行為のみならず、人がデザインしたものが構成する「環境」からの影響によって成り立っているのだと。

そうです。ですので、デザインは単独で考えるのではなく、社会の循環として捉えられる必要があります。

逆に言えば、よい社会を作っていく、一人ひとりのウェルビーイングを実現する、といったことに、デザイナーが作る一つひとつの成果、デザインされたもの、が影響を及ぼしていく。そのために、すべてのデザインされたものについて考えていかなければならないと思っています。

デザインは、なぜ「人類学の知」を求めたのか?エスコバル『多元世界に向けたデザイン』に寄せて──Poietica・奥田宥聡、人類学者・森田敦郎
https://designing.jp/designs-for-the-pluriverse-report1
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「社会運動」の視点からデザインを捉え直す。『多元世界に向けたデザイン』に寄せて──奥田宥聡、水内智英、森田敦郎
https://designing.jp/designs-for-the-pluriverse-report2
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「倫理的」のあり方を疑い続ける

──私たちの思考は、自らがデザインしたものの影響も常に受けている。それゆえ「先の先」までを見据え、そのデザインが倫理的に適切な影響を及ぼすのかを考えなければならない、ということでしょうか?

そこが難しいところです。自らが生み出したものが未来にどのような影響を与えるのかを正確に予測するのは原理的に不可能ですし、そもそも「『倫理的である』とはどういうことか」という問いに絶対的な答えを出すことは難しい。

だからこそ、自分たちが何をデザインしているのか、その影響はどういったものになるのかについて、常に「その現場」を意識しながら考え、議論することを行っていかなければなりません。デザインに関わる人であれば、自身のデザインに向き合う態度を考えなければならないと思っています。

そうして一人ひとりの倫理観を深めていきながら、「テクノロジーの倫理的なあり方」についての議論を進めていかねばなりません。たとえば、「人工物は倫理を持ちうるか」はとても重要な問いだと思っています。AIが発達し、ロボットの自律性が上がったとき、果たしてロボットは倫理を持てるのか。あるいは、ロボットが「倫理的である」とはどういう状態なのか。

ビジネスの世界でも、もっとそういった議論をしていかなければならないと考えています。これは、「環境によいデザイン」「人に優しいデザイン」といった単純化させた議論とは全く異なるものです。

──とても難しい問題であるからこそ、都度その倫理を考え続けていかねばならない。

あるいは、私たち自身が現在備えている倫理観をアップデートしていく必要がある。私たちの倫理観も絶対的なものだと捉えず、技術などの発展と共に変えていかなければならないのだと思っています。常に「こういう経緯でこれが『正しい』とされているけれど、その『正しさ』は変わるかもしれない」といった想像力を持ち続けることが重要です。

たとえば、著作権に関する認識はいい題材です。「他者の著作物を模倣してはいけない」ということは、デザイン、クリエイティブ業界では一般的な倫理観だと思うのですが、歴史を振り返ればその概念は比較的新しいものだと言えます。というのも、15世紀にグーテンベルクが活版印刷を発明したことをきっかけに著作権という概念が生まれ、18世紀初頭のイギリスにおいて世界初の著作権に関する法律が整備されました。

それまでは、むしろ「模倣」が私たちの文化を発展させてきました。しかし著作権が成立して以降、さまざまな企業のロビー活動によってその権利は拡大し、著作権ビジネスが横行することになった。そして、他者の著作物は真似してはならない存在になり、その権利を守ることは当然の倫理になったわけです。

ここから見えてくる教訓としては、「人の真似をしてはいけない」という感覚自体、アップデートし得るものということです。もちろんリスペクトは必要ですが、他者の著作物を真似したり、そのエッセンスを取り入れたり、コラボレーションをしたりする方が、社会全体のクリエイティビティは向上すると考えられます。

──「他者の著作物を模倣してはいけない」という「倫理」は、絶対的なものではなく、「模倣」がポジティブなものとして捉えられるケースもあり得ると。

これを意図的に行ったのが「クリエイティブ・コモンズ」です。クリエイティブ・コモンズは、現行の著作権を「ハック」して、「著作権の主張」と「著作権の完全放棄」の間にグラデーションを作って「いくつかの権利の主張(some rights reserved)」という状態を提示しました。

クリエイティブ・コモンズの可能性を示しているのが『初音ミク』の事例です。『初音ミク』は、他者の制作物を利用することを意図的に認めることによって、大きなムーブメントを生み出しました。『初音ミク』はクリエイティブ・コモンズが一般的な存在になる前から、クリエイティブ・コモンズと同じようなことをやっていました。

この事例から、創造の連鎖を解放することには新しい可能性があることを読み取ることができます。それは「ビジネスになる」こととは別の次元であるかもしれません。しかし、ビジネス自体「価値があること」を社会的に流通させる手段でしかありません。いまの価値観、倫理観自体、これまでの社会的制約の結果でしかなく、デザインに関わる人はそこから考え直し、そして新しい可能性を提示していかなければならないと思っています。

一人ひとりのデザイナーが、社会に一石を投じ続ける

──最後に、今後「デザイン倫理」に対してデザイナーはいかにして向き合っていくべきか、長谷川さんの見解を教えてください。

たとえば、ダークパターンについてインフォメーション・アーキテクチャの視点から考えるとき、「倫理的問題」とは相対的なものであることが見えてきます。通販で定価1万円の化粧品が「初回は500円で購入できますよ」と宣伝されており、その文句に惹かれて購入したあとによくよく広告を見てみると、小さく「初回500円で購入した場合、その後最低3回は購入いただきます」と書いてあり、結局は2万500円を払うことになってしまった、というダークパターン事例があります。わざと膨大な情報を消費者に与えることで、自らにとって不都合な情報をマスキングしてしまうような手法です。これは法律で防ぐことが難しい問題です。「ちゃんと書いてあるじゃないか」と言い訳が立ってしまう。

しかし、人の情報処理の観点からいうと、明らかに意図的に許容量を超えた情報であり、そこを意図的に狙っているという意味でダークパターンと言えます。つまり、そのデザインは明らかに「ユーザーのため」にはなっておらず、デザイン倫理的には問題がある。個人的にはそういった問題を解決していかなければならないと思っています。

──法的には問題がないけれど、「倫理的」には問題があるデザインへの対応が問われてくると。

さらに言えば、ダークパターンでなくても、「ユーザーのためになっていない」デザインは起こりえます。私はデザイナーこそ、こういった問題に向き合い、もっと声をあげなければならないと考えています。「倫理に向き合う」とはそういうことだと思っています。

最も大切なことは、すべてのデザイナーが自らの仕事はもちろんのこと、自らが置かれた環境、あるいは社会全体の状況に向き合い、デザイン倫理を「他人事にしないこと」です。すべてのデザイナーに倫理に向き合ってもらうためにも、私も自ら問題解決に挑みつつ、スペキュラティブデザインなどを活用して問題提起や提言を繰り返し、社会に一石を投じ続けなければならないと考えています。

──自らが手がけたデザインではなかったとしても、あるいはある種の不可抗力として生み出させてしまったダークパターンについても、デザイナーは声をあげていく使命があるのだと。

また、悪意を持ってダークパターンを生み出している企業もあれば、知らず知らずのうちにダークパターンにはまってしまっている企業もあります。まだ「どうすればダークパターンに陥らないか」を示した処方箋は存在しないので、これもつくっていかなければなりません。

客観的な指標はそもそも存在しないという前提のもと、一人ひとりのデザイナーが自身で考え、批判的議論を通じて、「デザインの倫理とは何なのか」を考える状態になっていかなければならないと思っています。

本連載と同じく「デザイン」と「倫理」をテーマにしたイベントも開催予定です。この記事のトピックスにご興味のある方は、ぜひ以下のイベントもチェックしてください。

【残席あり】5月13日(月)開催|「デザイン」と「倫理」その交点を探る—ANY by designing #04
https://peatix.com/event/3928536/
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Credit
執筆
鷲尾諒太郎

1990年、富山県生まれ。ライター/編集者。早稲田大学文化構想学部卒業後、リクルートジョブズ、LocoPartnersを経て独立。『FastGrow』 『designing』『CULTIBASE』などで執筆。『うにくえ』編集パートナー。バスケとコーヒーが好きで、立ち飲み屋とスナックと与太話とクダを巻く人に目がありません。

取材・編集
小池真幸

編集、執筆(自営業)。ウェブメディアから雑誌・単行本まで。PLANETS、designing、CULTIBASE、うにくえ、WIRED.jpなど。

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