中村寛×ムラカミカイエ|真の「共生」のためにデザインができること

「共生のためのデザイン」を掲げたムラカミカイエと、人類学者で多摩美術大学教授の中村寛が語り合う、「共生」の真意。

Focused Issues

本記事は、グッドデザイン賞2021 フォーカス・イシューと連動しており、双方のサイトへ掲載されています。

2021年度グッドデザイン賞の発表から数カ月、受賞作選定とは別の切り口からデザインの潮流を見いだす「フォーカス・イシュー」の議論は続いている。

フォーカス・イシュー・ディレクターとして「共生のためのデザイン」というテーマを掲げた、デザイナー/クリエイティブディレクターでSIMONE代表のムラカミカイエは、特別賞審査を経て、悩みを深めていた。

「共生のためのデザイン」という言葉に当初込めていた「ウイルスを含む生物、地球、自然環境との新たな共生」という含意だけでは、不十分だと感じたからだ。そこでムラカミは思索を深めるため、識者との対話に臨んだ。

対談相手に招いたのは、人類学者で多摩美術大学教授の中村寛。日本とアメリカをフィールドに「周縁」における暴力や社会的痛苦、差別と同化のメカニズムといったテーマに取り組む一方、主宰する「人間学工房」では学生やアーティスト、デザイナーなどクリエイターたちと活動を行い、その実践を発表している。

ふたりの対話から、「共生のためのデザイン」における「共生」とは何か、その手がかりを探る。

求められる、ウマの合わない人との「共生」

ムラカミ

今日は「共生のためのデザイン」について、中村さんに聞きたいことがたくさんあります。 大きな話になってしまうかもしれませんが、お付き合いいただけると嬉しいです。

中村

光栄です。「共生」って、重要なテーマですからね。でもキャッチーな言葉だからこそ、一人歩きしやすいというか。今や誰もが「共生」「多様性」と口にするものの、実態が伴っているかどうかはまた別の話です。

ムラカミ

中村さんはニューヨークのハーレム(編注:マンハッタン北部にある地区で、20世紀よりアフリカ系アメリカ人が多く居住していることで知られる)という、いわば共生が大きなテーマとなっているような街を対象に研究をされていますが、逆に日本は共生そのものがあまりイシューになってこなかった国だと思うんです。

いわゆる、稀に見る単一民族比率の高い国家として……もちろん、人種差別や階層構造が問題になっていなかったわけではありませんが、そこまで大きく議論されてこなかった。しかし、おっしゃるように昨今、言葉としては日本でも「共生」が叫ばれるようになりました。だからこそ、表面的な議論に陥らぬよう、グッドデザイン賞で「共生のためのデザイン」に目を向ける必要がある。

中村

確かに、講義などでハーレムのコミュニティや多様性について語ると、必ず戸惑いがつきまといます。それはおっしゃる通り、単一民族国家という“神話”が形づくられていて、多くの人がそれを信じこんでしまっている状態にあるからでしょう。

実際には、在日コリアンの方やアフリカ系の方など海外にルーツのある方もいて、差別などさまざまなな問題がある。にもかかわらず、なんとなく「みんな同じである」という感覚が色濃く残っている。でも確かに、ニューヨークと比べれば目に見えやすい差異は少ないかもしれません。アメリカの場合、ある意味多様性ってわかりやすいんですよ。肌の色もそれぞれ違って、文化慣習もまったく違いますから。それには、日本語と英語とが置かれている社会的位置がまったく違うということも関係しています。

ですから、同じように「多様性」を掲げていても、温度感も度合いも、質も違う。日本では多様なコミュニティをつくろうとすると、誰でも対等に話ができるのを前提で考えてしまう。“均質な多様性”とでもいいましょうか。でもそれは当たり前のことではない。その認識をいかに解きほぐしていくか、いつも意識しています。

人類学者/多摩美術大学教授 中村寛
ムラカミ

SDGsの流れもあり、日本で多様性を考慮した企業広告をつくるときに起こりがちなのが、「じゃあ黒人の方を起用しましょうか」みたいなこと。この国においてはそういったことが非常に表層的に見えてしまう。おっしゃるように、目に見える差異は少ないかもしれないけど、日本には異なるルーツを持った方がいて、それぞれ背景や物事の受け取り方は異なります。

たとえば、僕らの会社(SIMONE)には中国系のスタッフが多いのですが、大陸出身の方もいれば台湾出身の方もいる。そんなとき「中華圏に発信しよう」と言っても、彼らの考える中華圏はそれぞれ違うわけです。市場原理で考えるのがもっともシンプルかもしれませんが、社内コミュニケーションにおいてはそうはいきません。誰も取りこぼさず、気持ちを思いやり折り合いをつける必要があるわけです。

中村

“多様性”とは、そのなかには必ず嫌いな人、ウマの合わない人がいる、ということを意味します。「なんだこいつ」と思うような人とも折り合いをつけて、うまくやっていくことが、前提にあるんです。

不安な状態だからこそ、「共生」を考える

ムラカミ

今まさに僕らは、時代の転換期にいるからこそ、そうした「折り合いをつけて、うまくやっていく」という意味での共生が求められるのだと思います。産業革命級にインパクトのあるような、転換期に置かれている。富める人と困窮する人、これまでの時代をつくってきた人とこれからの時代をつくる人……さまざまなところで二項対立が生まれ、その狭間で疲弊する人がいる。

一人ではとうてい太刀打ちできない大きな波が来ていて、市場原理や政治のレイヤーでは対処できない問題が起こりはじめている印象があります。でも実態として、まだぼんやりとしているから、社会全体が迷い、不安な状態にあると思うんです。

中村

不安な状態がいちばん危ういと思っていて、誰もが明確な答えを求めがちなんです。わかりやすい答えを言ってくれる人を求めている。でもそれは歴史を振り返れば、 問題解決の矛先がユダヤ人に向かい、ナチスによる大虐殺が起こったことに代表されるように、思考停止に至る危機的な状況なのではないか、と。

ムラカミ

アメリカで起きた議会占拠も、その表れなのかもしれません。

最近、ヒップホップでもリリックの内容が変わってきたんですよね。以前はクルー、つまり自分の仲間たちのことやドラッグ、お金儲けといった人種差別問題からくる社会や生活描写が主だったけれど、今はどんどん内省的になって、自らの葛藤や精神的不安について歌っている。つまり、戦う相手が変わってきたんです。

中村

なるほど。

ムラカミ

不安が顕在化しつつある背景には、これまでアメリカで共生というイシューに対して一定の機能を果たしてきた、教会や地域コミュニティといったシステムの揺らぎもあるかもしれません。

デザイナー/クリエイティブディレクター/SIMONE代表 ムラカミカイエ
中村

僕の研究してきたネイション・オブ・イスラーム(アフリカ系アメリカ人によるイスラーム運動組織)はそういったコミュニティの最たるものですね。教会にすら受け入れられなかった人々に救いの手を伸ばしてきた。

ムラカミ

一方日本では、先ほども話題に上がったようになんとなく意識せずとも共生できていたのが、単一民族国家という幻想が崩れ去りつつある。その結果、行政はもちろん民間企業ですら、一気にその課題と向き合わざるを得なくなっている。そのなかで共生のためのトリガーとなるような指針やマインドを再考しなければならない。

暴力性をゼロにはできないが、縮減はできる

ムラカミ

共生のためのデザインを考えるうえで、世代観の違いも踏まえる必要があると思います。若者と30〜40代、そして50代以上の三世代で大きく価値観が異なっていると感じます。この三世代の共生について考えなければいけないのではないか、と。

中村

物心ついたときからiPhoneのある世代とそうでない世代とでは、明らかに物事の見方や世界との接し方は違うでしょうからね。テクノロジーの進化速度は、少なくともある一定期間は指数関数的ですから、今までの感覚のままではとうてい対応しきれない。僕も学生たちと接していて、さまざまな質問を投げかけてみるのですが、何に喜びを感じて、何を楽しんでいるのか、なかなか探りあてられない感覚があります。しかも超高齢化社会である日本の人口構成を考えると、彼らの声が反映されにくい構造になっていく。

ムラカミ

かつ、明らかに年長世代の経験が参考になりにくい時代になってきましたよね。生きる知恵や文化継承、事業の成功確率などを高めるには役立つけど、少なくとも文明のアップデートが求められるこの時代のアイデアの起点としては若い世代から得られるものが大きいという感触があります。

中村

若い世代から出てくるアイデアに何か特徴はありますか。

ムラカミ

そもそも、既存の社会構造や政治フレームに疑問を抱いているというか、分断を感じている。今ならどの企業も必死にSDGsやESGに取り組もうとしているけど、もはやそれは社会がつくった便宜上のフレームに過ぎないと若い世代は理解している。なので前提として、とにかく過去の功罪を回収して、自分たちがドライブできる環境をつくってほしい、そうすればちゃんとやっていけるのに、という感覚が強いインサイトとしてある。世代を超えた階層構造がないフラットな共生社会が是である、といったことへの要求が非常に強い印象があります。

中村

そうかもしれませんね。

ムラカミ

それと何かテーマを設定したとき、一つの物事を掘り下げる能力が非常に高いと感じます。

中村

情報の集め方が極めて自然というか、ネット上の真偽に振り回されることなく、テクノロジーをうまく使いこなしている印象があります。

一方で、興味深い指摘もあります。『ヤバい社会学』の著者として知られるアメリカの社会学者スディール・ヴェンカテッシュ(Sudhir Venkatesh)が、FacebookとTwitterで働いた経験をもとに配信しているポッドキャストでは、プラットフォームの問題点をいくつかあげています。その共通項は、そもそもプラットフォーム、あるいはテクノロジーの特性そのものが、人を分断へ導くようにできているというもの。

もちろん、テクノロジーの良い面にフォーカスすることは可能ですが、宿命的にはらんでいる問題に対していかに対処するか、よくよく考えなければなりません。しかもこれだけ普及していますから、一様に制限をかけたところで、問題は覆い隠されるだけで解決しない。うまく付きあっていくしかないんです。

共生において「暴力性をゼロにすることはできないけど、縮減させることはできる」と構えておくことが重要でしょう。

デザイン人類学で共生の社会実装を

ムラカミ

こうして考えていくと、グッドデザイン賞そのものにもまだまだ改善の余地があると言わざるを得ないと思うんです。「共生のためのデザイン」をテーマに掲げたものの、今回選ばれたデザインを20年後に見たとき、納得してもらえるか……「この頃はまだ過渡期だったんだね」と思われるような気もしているんです。本当は将来世代の視点を踏まえて、もっと大きくジャンプして、振り切ってみてもいいんじゃないか、と。

これほどテクノロジーが加速度的に進化し、環境問題がますます切実な課題となるなか、10年後、20年後のスタンダードになり得る萌芽を選ぶためには、審査委員にもっとテクノロジーや未来の方向性を見越せる視点や人が必要なんじゃないかと思います。僕らより若い世代はもちろん、中村さんのようなアカデミアの方々にも力を借りて、将来世代にバトンが渡せるグッドデザインを考えていきたい。

中村

確かに、欧米圏にとってここ20年で最大の危機はやはり環境問題と気候変動です。とはいえ、かつて「途上国」と呼ばれた国々は経済成長を求めるし、その恩恵を受けるのは「先進国」でもあるので、いかにコロニアリズム(植民地主義)に回収せずにこの問題に取り組むかが最重要課題となっています。

ムラカミ

SDGsが採択されたときのさまざまなやり取りや調整を見ていると、まさにこれこそ共生の話だなと思いながらも、市場原理が優位に立ってしまう瞬間はあって。テクノロジーを活用して、そういった論理と切り離されたところから解を示すことができないか、と考えたりします。

中村

それは面白いし、できると思います。また、そういう意味では、ご指摘のようにアカデミアは利益集団から一定の距離を置いているとも言えますし、科学技術や学術的観点から論じることができるでしょう。近い論点で、今社会課題に対するアプローチとして、「デザイン人類学」という学問分野に注目しているんです。

一言では説明しづらいのですが、デザイナーと人類学者が協働し、はじめから社会的な批評を織り込んだうえでプロダクト・事業開発や仕組みづくりをするという実践です。欧米圏では人類学者や社会学者を企業に呼び込み、現場に介入させるようなことをよくやっています。たとえば、特定の部署に人類学者や社会学者が入って、フィールドワークによってその部署の課題やその改善方法を探っていく。日本でも最近、ソニーが文化人類学者をリサーチャーとして採用すると話題になっていましたね。

理系の研究者は既に多くの企業で採用されていますが、人文系の研究者が企業に入ることで、より長いスパンで未来を考えられるようになる。もっと、そういった事例が増えていくといいなと思います。

ムラカミ

おっしゃる通りです。

中村

ある意味、人類学のやってきたことは基礎研究のようなものかもしれません。人類学は、すでに起きてしまったことを後から振り返ることでしか成り立ちません。調査をもとに思考して検討して、成果物として論文を書いて、誰かが参照できる基軸をつくっていく。思考する流れ自体は、デザイナーとあまり変わらないんですよ。つまりトライアル・アンド・エラーで、初期の人類学者の場合は西洋圏から非西洋圏へ出発し、なぜ「人間」はこれほど違うのかと驚くことからはじまり、自らの認識のフレームを何度も改め、差異の内に共通項を見いだしている。内省と再構築の繰り返しです。だから、ものごとを考えるうえでの批判理論の蓄積が相当にあるのですが、成果物が論文や著作だと、どうしてもインパクトは弱まるし、タイミングも遅くなる。

他方で、デザイナーは「問題」にすぐに「介入」することが期待されますよね。応用研究に近いのかもしれません。その分、直接的なインパクトを生むことができる。ただ、デザイナーはトライアル・アンド・エラーの過程で失敗したものでも、どんどん出してしまうことができる。あるいは、失敗かどうかを吟味する前に世の中に大量に出まわってしまうことがある。これまでは、失敗でもあとからなんとか覆い隠したり、封じ込めたりしてやってきたのが、今は明るみに出やすい問題も増えました。環境への影響ひとつ取っても、そのまま放置するわけにもいかない。だからはじめから人類学者とともに吟味して、批判的な視点を織り込みながらモノづくりしたほうがいいのではないか、と。それこそが本当の意味での社会実装ではないでしょうか。

ムラカミ

おもしろい。本来そうあるべきですよね。

違う経済圏を作っていくこと

中村

一方でアカデミアにも課題があると考えていて。この大きな時代変化に対して、研究・教育制度そのものが対応できていないんです。特に日本では旧態依然とした制度を維持していて、ヒエラルキー構造が固定化しています。極端に言えば、高校までは減点法でひたすら枠にはめられ、それに耐えて勝ち上がった人が大学に進学したとたん、野放しにされてしまう。研究者である教員の交換制度も機能していないし、外部資金を活用しにくい仕組みになっていて、このまま放っておくと研究・教育全体が地盤沈下してしまうのでは、と現場にいながら感じています。

ムラカミ

なるほど。

中村

でも大学は本来、多様性や共生のメカニズムが働いていて、利害関係なくニュートラルに議論を深めることのできる、社会における最後の砦のようなものだと思うんです。アメリカの大学では、アドミッション・ポリシーや教職員採用の方針で、障害の有無や、人種、エスニシティ、宗教、性別、言語、社会階層などの観点から多様性を重視する、と明示してあるんです。アメリカの大学に差別がないと言っているのでは決してなく、「逆差別ではないか」といった意見が出てきたとき、明確に「それは差別の定義が間違っている」と言えるようなコンセンサスが、ある程度大学コミュニティ全体として形成されているということです。

これってよく日本で起こることですよね。男性中心社会で、中年以上でそれなりの役職についている人が「逆差別だ」と言ってしまう。自ら利権を持っている側であることを自覚せずに、です。差別というものが個人の問題ではなく、構造・制度上の問題であると学ぶ機会がなかったということなのでしょうが、日本でもきちんとそういったコンセンサスを形成していかなければならないと思うんです。そういう意味ではグッドデザイン賞も、年齢や性別、属性など社会の構成に準じて、もっと多様でインクルーシブな視点を入れていかなければならないのではないでしょうか。

ムラカミ

その意味では、企業における実践は可能性があると思います。会社という組織がおもしろいなと思うのは、経営者と社員の描く未来次第でいかようにも変えられる。例えばSIMONEという会社は、日本のデザイン業界のどのカテゴリーにも属しておらず、多様な出自や国籍、思考や技術を持った人材の集合で、組織運営が社員採択に委ねられているというユニークな組織です。そういった会社、ある種のコミュニティの理念に共感してくれる人やクライアントからしかオファーが来ないので、誤解が生じることも少なく、下請けというよりも同じ理念を共有するパートナーとしてお付き合いできます。結果、海外のクライアントからのオファーが多かったり、リクルーティングの8割ほどが海外の方からの応募だったりします。

日本だと公式サイトで作例を公開するのが当たり前だけど、僕らは過去の実績に縛られたくない。ルールによって会社を統治するのではなく、目指す未来、ビジョンばかりを語るようにしています。

中村

今、腑に落ちました。以前にはじめてオンラインでお会いする前、ムラカミさんのことを調べようと一通り公式サイトを見たのですが、理念は語られているけど、SIMONEがどんな会社で何をしているのか、最終的に謎のままで対談に臨むことになりました(笑)

ムラカミ

それは流石に問題ですね、再考します(笑)。私たちは、つい無意識に共同幻想にとらわれ、意見が違う人、ついていけない人を排除するという思考に陥りがちです。しかし、「社会は異なった個の集合、つまり、みんなが全て違う」という大前提に成り立っていること、そして自分の社会的な立ち位置を俯瞰的にそうすることで、現代社会に求められるニュートラルな共生視点が獲得できるのではないかと、お話を伺って感じました。

これは、いま求められるデザイン視点も同じで、より社会的インパクトのあるデザインを生み出すためには、人類のこれまでの文化的研鑽から得られた知恵も取り込み、オルタナティブな意見や批判にも積極的に耳を傾けながら前に進んでいくことが大切なのかなと。そういったアングルの切り替え、新たなレンズの獲得といったようなものが、これからのデザインの地平線を切り開いていくことに繋がっていきそうですね。

最後にお聞きしたいのですが、共生というテーマを社会的に実現する上で我々デザインに関わる人間ができることや、取り組む際のヒントになりそうなことがあったら教えていただけますか?

中村

共生というテーマとの関連で思いつくままに3つだけあげるなら、①有限な惑星の内で人間中心主義のあり方を見直すこと ②吃音や叫びなどの、明確な言葉にならないがゆえに「想像」の外に置かれがちな、聞き取りにくい声を聞こうとすること ③個人であれチームであれ、個々の専門性を超えたネットワーキングで応答すること、でしょうか。

地域に深くかかわったり、環境インフラや医療・福祉分野などでの熱心な取り組みがあったりと、社会問題に積極的にコミットするデザイナーがすでにいて、それは本当に素晴らしいなと思います。今後ますます、デザインとは一見すると最も縁遠いように思える領域ーーたとえば法や政治などーーで、デザインが求められると思います。また、AIやメタヴァースなどの新技術が生み出す新たな問題にもデザインが求められるでしょう。テクノロジーと身体の距離が縮むと、それは人が主体的・能動的に用いることができる道具であることをやめ、身体に埋め込まれた状態に近づきます。テクノロジー側から見れば、テクノロジーに身体が埋め込まれた状態とも言えますよね。そうなると、《技術とともにある人間》を捉える新しい文法も必要です。

その際に、現場やユーザーの声とともに考える必要性は誰もが口にするでしょう。ただ、たとえば経営者やエンジニア、プログラマー、デザイナーだけで「解決」を図るのではなく、彼らと一緒に考え、ともに想像/創造することができる人類学者や社会学者、哲学者、歴史学者がいるとよいのかもしれません。共生というテーマへの取り組みのプロセス自体が、多声的(polyphonic)であり、ときに「不協和音」を含むようなものであれば、同化主義的な共生に陥るのをある程度回避できるでしょう。

そうすれば、もう少し長いタイムスパンで、より深く、やわらかく、社会学者アルベルト・メルッチの言う「惑星社会(planetary society)」(※1)でのヒトの生成変化(becoming)(※2)を志向/思考することができるように思います。そのとき、デザインは、ケア(caring)に近いものになるのかもしれません。

(※1)中村注:アルベルト・メルッチの『プレイング・セルフ――惑星社会における人間と意味』(新原道信・長谷川啓之・鈴木鉄忠訳、ハーベスト社、2008年)は、共生というテーマを考えるうえでおすすめの一冊。メルッチの論じる「惑星社会 planetary society」は、資源も機会も有限である特定の時空間に、仕草のようなうごきをともなって生きる身体を捉えるうえで、きわめて示唆的である。臨床心理学の実践を通じて個々人の身体の内なる機微に迫り、同時に社会学のなかでも特に社会運動論を通じて社会のマクロなうねりを捉えようしていたメルッチは、どのような成り行きを予見し、どのような社会を構想していたのだろうか。

(※2) 中村注:「生成変化」はこれまで幾人もの哲学者によって論じられてきたが、20世紀に入って正面から論じたのはジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリたちだった。この概念は、近年あらためて注目され、さまざまな文脈で援用されてきた。たとえば、固定的な自我を前提とした「人間存在 human being」にかえて、うごきのなかで何者かになっていく変容態として人間を捉えるために、「human becoming」や「human co-becoming」という言葉が使用されることがある。人間のような生命だけでなく、社会や制度、モノ、デザインなども、こうした「なにもの(なにごと)かに成っていくbecoming」ものとして捉えなおせるだろう。『WIRED』誌の創刊編集長だったケヴィン・ケリーによる『〈インターネット〉の次に来るもの』(服部桂訳、NHK出版、2016年)は、最初の1章をさいて「Becoming」を論じている。

Credit
執筆
大矢幸世

ライター・編集者。愛媛生まれ、群馬、東京、福岡育ち。立命館大学卒業後、西武百貨店、制作会社を経て、2011年からフリーランス。鹿児島、福井、石川など地方を中心に活動。2014年末から東京を拠点に移す。著書に『鹿児島カフェ散歩』、編集協力に『売上を、減らそう。たどりついたのは業績至上主義からの解放』『最軽量のマネジメント』『カルチャーモデル』『マイノリティデザイン』など。

編集
小池真幸

編集、執筆(自営業)。ウェブメディアから雑誌・単行本まで。PLANETS、designing、CULTIBASE、うにくえ、WIRED.jpなど。

撮影
今井駿介

1993年、新潟県南魚沼市生まれ。(株)アマナを経て独立。

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