
「人間中心」デザインを超えて。「モア・ザン・ヒューマン」なデザインへの道筋——『ポストヒューマニズムデザイン』著者ロン・ワッカリー
ポストヒューマニズムは、「人間」と「それ以外」の間に、明確な境界はないのだということに対する理解から始まります。人間とは、あらゆるものとの関係の中に存在するものである。こうした考え方を「関係性の存在論」といいます。
近年、人間中心が広く定着した一方、「ヒト」だけに目を向けたデザインの自明性に疑義を挟む動きも出てきている。
そうした「人間中心」の問い直しとして、最も重要かつラディカルな議論を展開する書籍の一つが『ポストヒューマニズムデザイン―私たちはデザインしているのか?』(著:ロン・ワッカリー 訳:森一貴、水上優、比嘉夏子 原題: "Things We Could Design: For More Than Human-Centered Worlds")だ。
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2025年8月に出版された本書の試みを一言で言えば、人間例外主義や人間存在の特別性という幻想から生まれた「人間中心(human-centered)デザイン」を退け、ポストヒューマニズムに基づく「人間中心以上(more than human-centered)デザイン」を確立することである。
著者であるロン・ワッカリーは本書の中でHCI(Human-Computer Interaction)や技術哲学、参加型デザインなど、さまざまな領域を横断しながら論を展開する。その射程は広く、デザイナーという存在、あるいはデザインという行為そのものに対する深遠な示唆を提供してくれる。
本書の背景をより深堀りすべく、designingでは著者のワッカリーへのインタビューを実施。翻訳を担当した森一貴、水上優、比嘉夏子が聞き手を務め、本書に託した思いを深堀りする。これからのデザイナー、あるいはデザインに求められる「モア・ザン・ヒューマン」な視点とは——。
「人間中心」のデザインへの疑問
——まずは、この『ポストヒューマニズムデザイン』という本を書こうと考えた理由からお聞かせください。
私はアーティストとしての活動を経てアカデミアの世界に入り、HCI(Human-Computer Interaction)など、テクノロジーとデザインに関わる領域の研究に携わってきました。
ただ、研究活動を始めた当初から「ユーザー中心デザイン」や「人間中心デザイン」というコンセプトに疑問を感じていたんです。ユーザー、あるいは人間のみにフォーカスしてデザインをすると、あまりにも多くのことを見過ごしてしまうのではないかと。
そこで、人間中心・ユーザー中心のデザインが見過ごしているものの側から、デザインを見てみたいと考えるようになりました。では、どうしたらそれができるのか。それを考えたときに、「私たちがつくったモノの視点から、そのモノ自体を見てみたらどうだろう」と思い至ったのです。
似た話題で言えば、少し前まで、多くの人が「モノのインターネット(IoT)」というアイデアに夢中になっていました。しかし、IoTに関する話題の中心は「インターネットでモノ同士がつながったとき、モノはいかに人間に奉仕するか」でした。そうではなく私は、「インターネットでモノ同士がつながったとき、それはいかに私たちを形づくるか」という問いを立ててみたいと思ったのです。
ロン・ワッカリー|サイモンフレーザー大学インタラクティブアート&テクノロジー学部教授。同大学にてエブリデイ・デザイン・スタジオを創設。またアイントホーフェン工科大学インダストリアルデザイン学部教授であり、フューチャー・エブリデイ・クラスターにおける「人間以上中心の世界のためのデザイン」プログラム代表。彼の研究は、人間-テクノロジーの関係性およびポストヒューマニズムについての新たな理解を踏まえた、デザインおよびHCIの変容を対象としている。その目標は、新たなデザインの事例、理論、創発的実践を省察的に生み出すことで、説明責任を果たしうる、持続可能で公平なデザインのあり方を構築・理解することである。ノバスコシア美術デザイン大学にて視覚芸術学士(BFA)、ニューヨーク州立大学にて視覚芸術修士(MFA)、プリマス大学にてHCI領域の博士号(PhD)を取得。
——モノを「人間に奉仕するもの」としてではなく、「人間を形づくる主体」として捉えると。
そうしたパースペクティブを、私は「モノ中心アプローチ(thing-centered approach)」と呼んでいます。
これは一種の批評です。「私たちから見たモノ」を考えるのではなく、「モノから見た私たち」を考えることは、私たちに多くの気づきと問いをもたらしてくれます。この視点を持ったことをきっかけに、私はデザインの世界はデザイナーとしての私たちだけでもなく、モノだけでもなく、それらが同時に存在する、非常に多元的なものであるという事実に気付くことになりました。
「モア・ザン・ヒューマン」とはなにか──デザインにまつわる2つの誤解
——「モノ中心アプローチ」によって、従来の「人間中心」のデザインを問い直すということですね。
その後、「モノ中心アプローチ」について考えを深めていく中で、「ポストヒューマニズム」や「モア・ザン・ヒューマン」という思想が、私が探求していた他の考えと一致することに気づきました。
まず、テクノロジーを「常に変化する、不安定なもの」として捉える考えです。ポスト現象学(技術が人間の経験や知覚に与える影響を考察する哲学領域)を興したドン・アイディは、「デザイナーの誤謬」という概念を提唱しました。この概念は、デザイナーたちが持つ「モノは(デザイナーの)意図通りに機能する」という“誤解”を意味しています。デザイナーたちは、特定の目的のためにテクノロジーをモノに落とし込み、その目的を果たすことがそのモノのすべてだと考えがちです。
しかし、現実的にテクノロジー、あるいはモノは、誰が、どのような状況で使われるのか。そして他のテクノロジーやモノと、どのような関係性のなかにあるかによってその振る舞いを変え、その変化をデザイナーがコントロールすることはできません。つまり、テクノロジーを「常に変化する、不安定なもの」だと捉えるべきなのです。
——テクノロジーは常に変化するがゆえ、デザイナーは思い通りにコントロールすることができないと。
そして、「ユーザー」という概念に対する批判を行う、という考えとも一致しました。デザイナーが「ユーザー」と言うとき、それは基本的に「人間」を意味しますが、人間に過度に焦点を当てることは、人間以外のものとの関係性を犠牲にすることにつながるのではないか、と。
私たちが生きるこの世界は、人間や生物、その他の有機物や無機物が、関係し合い成り立つ、とても複雑なものです。そんな世界において、モノをつくる上で人間だけにフォーカスをするのは、この世界の姿を誤認しているとしか言いようがありません。
テクノロジーを「常に変化する、不安定なもの」として捉えること。そして、この世界は、さまざまなものが関係しながら成立しているということ。この2つの事実に気が付いたとき、「モア・ザン・ヒューマン」というアイデアに至ったのです。
私たちはずっと「モア・ザン・ヒューマンな世界」でデザインをし続けてきた。そして、この事実に気付いた瞬間、この事実と向き合い続けなければなりません。「この事実に気付いた」ということが、私たちの現在地なのだろうと感じています。
ヒューマニズムから「ポストヒューマニズム」へ
——「モア・ザン・ヒューマン」という概念を踏まえて、邦題にもなっている「ポストヒューマニズム」とは何か、あらためて聞いてみたいです。
ヒューマニズム・デザイン、すなわち「人間中心のデザイン」の源流をたどると、存在論(ontology)の問題に行き着きます。「人はなぜ存在するのか」という問いですね。
14〜16世紀のルネサンス時代に至るまで、西洋では世界の中心は「神」だと考えられていました。しかし、ルネサンス期に封建的身分制度や、ローマ・カトリック教会の権威から人々が解放され始め、「神中心から人間中心へ」というバラダイムシフトが生じたわけです。これが、人間中心主義の発端です。
その後、17世紀末から18世紀にかけてヨーロッパで啓蒙思想(理性や科学的思考によって、世界を把握しようとする思想)が誕生し、人間はその他の存在と明確に区別されるようになりました。人間は世界で唯一理性を持つ存在であり、その理性こそが人間が世界という舞台の中心にいる根拠だと考えられるようになったわけです。そうして、「理性を持っていること」こそが、人間の存在理由だと考えられるようになりました。
また認識論、簡単に言ってしまえば「私たちはどのように世界を認識しているのか」という問いに対する回答もまた、ヒューマニズムの観点では「理性」になります。つまり、私たちの存在や「特別さ」は理性によって成り立っていて、その理性によって世界のすべてを認識し、コントロールしている。これがヒューマニズムの考え方です。
——ポストヒューマニズムとは、そうした「理性」中心の考え方を否定するものだということでしょうか。
ポストヒューマニズムは、「人間」と「それ以外」の間に、明確な境界はないのだということに対する理解から始まります。生物学的なレベルで言っても、私たちの身体の大部分はバクテリアやウイルスなど、「非人間」で構成されています。私たちの身体そのものでさえ、他の存在との「関係」の中にあるものなのです。人間とは、あらゆるものとの関係の中に存在するものである。こうした考え方を「関係性の存在論」といいます。
ヒューマニズムにある種の心地よさがあることは認めます。自分たちがその他の存在とは区別され、その他の存在をコントロールし、その上に立っていると考えるのは気持ちがいい。しかし、現実はそうではなく、私たちも含むすべてが動的な存在で、すべてのものとの関係の中にある。これは、ポストヒューマニズム的な人間観であり、世界観です。
もう一つ、ヒューマニズムとポストヒューマニズムの差異を説明する際に重要なのは、「何が世界に影響を与えるのか」という問いです。ヒューマニズムの立場では、世界の主要なエージェント(行為主体)は人間であり、人間のエージェンシー(行為能力)が世界を動かしている、と考えます。
しかし、ポストヒューマニズムでは、すべてのものが私たちと共に、それぞれの性質を活かして世界に影響を与えていると理解します。それはつまり、この世界はすべての存在が非階層的でフラットな関係を築き、世界に影響を与えるエージェンシー——それぞれの種類や質、強度はばらばらだとしても——を共有し合っているということです。
ポストヒューマニズムは、人間中心主義を許さず、私たちを“脱中心化”することになります。それによって、私たちは多元的で、集合的で、協力的で、あらゆるものとあらゆるものを共有する、探究的な世界へと開かれることになる。そして、焦点を絞った限定的な見方でなく、より広範に世界を見渡せるようになるのです。
モア・ザン・ヒューマンな「経歴書」という視点
——ポストヒューマニズムの具体的な事例も教えてください。
『ポストヒューマニズムデザイン』でも取り上げていますが、たとえば優れたファッションテックデザイナーであるPauline Van Dongenがデザインした、LEDライトが埋め込まれたランニングシャツ「PHOTOTROPE」。私はこのプロダクトを「共同形成」──テクノロジーが「私たち」という存在をいかに媒介し、私たちがテクノロジーをいかに媒介するか──を示す例として気に入っています。
- Phototrope - Pauline van Dongen
- https://www.paulinevandongen.nl/portfolio/phototrope/#scroll-down
「PHOTOTROPE」は優れた素材でつくられたランニングシャツで、私たちの身体から汗を吸い上げ、体温を調整し、生理学的な影響を与え、私たちを変容させます。また、私たちに「速く走っているような感覚」を与えてくれるビジュアルをしています。
そして何より、「PHOTOTROPE」がもたらすより強力な影響とは、「発光する」という特性によって、ランナーが夜間でも活動できるようになることにあります。それはつまり、テクノロジーの力によって、ランナーたちは“夜行性の生き物”に変容させられる、ということです。
ここには「サイボーグ・フェミニズム」の提唱者として知られるダナ・ハラウェイが言うところの「サイボーグ」的なヒトとモノの関係があります。「サイボーグ」というと、多くの人は機械人間のような極端な姿を思い浮かべますが、ハラウェイが想定するサイボーグはそのようなものではありません。
ハラウェイが好んで使用する例は、「ランニングシューズを履くこと」。私たちはランニングシューズを履くことによって、素足の際とは異なる走り方が可能になります。ランニングシューズを履くことで、私たちは“別の生き物”、すなわちサイボーグになっている、とハラウェイは考えるのです。
つまり、私たちの生き物としての在りようは、常に何かとの「関係」の中で決定され、私たちは常にその関係性の中で「自らが何者であるか」を理解していると言えるでしょう。そして、こうした在り様を説明する際にキーワードとなるのが、『ポストヒューマニズムデザイン』の中で示した「経歴書(biography)」という概念です。
——この「経歴書」という概念について、改めて説明していただけますか?
まずは、その言葉の成り立ちから見てみましょう。「bios」とは「生命」、「graphe」とは「書くこと」ですね。すなわち、biographyとは、「(自らの)生を書くこと」です。一般的に、biographyは人間が書くものとされ、過去の経歴などについて書かれたものを指します。
私はこのbiographyという概念は、私たちがデザインするモノの「モア・ザン・ヒューマンなエージェンシー」とは何かを再考する上で、とても重要なものだと考えています。デザイナーとしての私たちは、テクノロジーや素材など、あらゆるものと共に何かをつくり、モノをこの世に送り出すわけですが、その「テクノロジー」や「素材」もまた、エージェンシーを持っています。「エージェンシー」を言い換えるならば「生命」、つまり「bio」です。
つまり、私たちがつくったモノは何であれ、世界に影響を与えるわけですが、その影響はデザイナーとしての私たちのエージェンシーのみならず、テクノロジーや素材、あるいはモノそれ自体が持つエージェンシーによって生じます。あらゆるモノのエージェンシーが紙に絵を描くように、自らを世界に書き込んでいるのです。
そして、それはデザイナーである私たちがコントロールできるものではありません。私たちは、モノのエージェンシーが引き起こすさまざまな結果を「意図せざる結果」と表現しますが、それは私たちにとって「意図せざる」だけであって、それが世界の本質なのです。世界にあるものはすべて、多元的な可能性を秘めています。
——人間のみならず、すべてのモノが独自のエージェンシーを持ち、そのエージェンシーによって常に世界に何らかの影響を与えている。そうした諸影響のことを「経歴書(biography)」という概念で指し示している。
そうですね。そして、「経歴書」にはもう一つ、みなさんに真剣に考えてもらいたい側面があります。
それは、私たちがモノと私たちの関係について、「人間による使用」にあまりにも固執するあまり、「人間に使われているとき」がモノの生のすべてだと考えてしまうということ。これは、人間中心デザインと人間例外主義がデザインにもたらす最大の弊害だと考えています。
私たちはあるモノが人間に使われなくなれば、そのモノは存在しないか、役に立たないものだと思い込みます。しかし、人間に使われなくなったとしても、モノは生き続け、世界に自らを刻み続け、影響を与え続けます。
『ポストヒューマニズムデザイン』では、わかりやすい例として使い捨てのレジ袋の話をしました。レジ袋は元々、その使用時間を10分程度だと想定してデザインされたものです。食料品店から車まで、車から家まで荷物を運ぶためにある——これが「袋」のエージェンシーです。
しかし、レジ袋の素材であるポリエチレンのエージェンシーはその対極にあります。それは軽く、風に乗り、世界中を移動します。また、「大量生産できること」もまたポリエチレンのエージェンシーの一部です。そして、やがてレジ袋はあらゆる場所に行き着き、細かくなることはあっても分解されきらないために、さまざまな影響をもたらします。マイクロプラスチックが海洋環境を汚染していることは、誰もが知るところでしょう。
その影響は、100年、1,000年、あるいは1万年にも及ぶかもしれません。これが、私たちがデザインした使い捨てレジ袋の“経歴書”なのです。
——モア・ザン・ヒューマンな「経歴書」という視点を持つと、モノに対する見方が大きく変わりますね。
これは「環境に優しくなければいけない」「持続可能性を担保しなければならない」と主張することとは全く違います。というより、「持続可能性」を重要視することの意味が私にはよくわかりません。なぜならば、私たちがつくっているモノの多くは持続すべきではないし、デザインとは世界を変えることであり、現状を維持することではないからです。
「経歴書」という概念は、私たち自身の経歴書と関連付けられるように考え出しました。私たちは自分の始まりを想像し、世界の中でどう在り、何をするかを考え、そして終わりをイメージします。その一連の思考と想像を通して、私たちは自分自身の生の深みや不確かさ、可能性を知ります。
それらをモノと結びつけ、すべてのモノがそれぞれの生を持っているという事実を受け入れる。そして、すべてのエージェンシーと共にデザインするのか、ということを考えることが必要なのです。
デザインを生む「協議体」の中で
——「経歴書」と同様に『ポストヒューマニズムデザイン』の中で重要な位置を占めている概念として、「協議体(constituency)」というものがありますよね。
現在のデザインの仕方を見つめ直すことで、「協議体」という概念の理解に一歩近づけるのではないかと思っています。
『ポストヒューマニズムデザイン』でも使ったのは、「キッチン」を例にした説明方法です。キッチンは料理をつくる場所ですよね。そして、そこには「モア・ザン・ヒューマン」なものが集まっています。肉や野菜などの素材、包丁やまな板といった道具、あるいはそのキッチンが「どこにあるか」も重要です。キッチンにおいて、どのように、あるいはどのような料理がつくられるかには、民族性や歴史的な要素も影響を与えるからです。また、さまざまな「価値観」もそこには存在します。ヴィーガンであること、あるいは遺伝子組み換え作物を拒絶すること……キッチンには、そういった価値観も入り込むわけですね。
そこで料理をつくるのは誰——あるいは何——か。人間の視点で言えば、そこで料理をつくるのは私たち人間です。しかし、いま述べたように、キッチンにはさまざまなモア・ザン・ヒューマンなものが存在し、それらが集合体を形成していて、その集合体こそが料理を生み出しているのです。私はデザインも同じだと考えています。
つまり、デザインは人間という単独の主体ではなく、さまざまなモノ、歴史、文脈の集合体が生み出している。そしてこの集合体を「協議体」と呼んでいるのです。
——人間は、デザインを生み出す集合体、すなわち「協議体」のいち構成要素に過ぎないということですね。
そういうことです。私たちは大抵の場合、何らかのモノを生み出した後に、それが引き起こす倫理的な問題の存在に気がつきます。そういった事態を招くのは「デザインとは、人間という単独の主体が生み出すものである」という誤った理解なのです。
「協議体」という概念からデザインを捉えれば、そのような問題のほとんどが抑制可能です。キッチンの例に戻ると、たとえば「料理を提供する対象がヴィーガンである」という文脈を踏まえて料理を始めれば、どのような料理をつくるべきで、どのような料理をつくるべきではないかがおのずと見えてくるはずで、料理をつくったあとにその料理が引き起こす問題に気付いた、などということは起こりようがありません。
デザイナーとしての私たちが「協議体」の中で果たすべき役割とは、モア・ザン・ヒューマンな世界のあらゆるものと共にデザインに取り組み、その中で生じるさまざま倫理的問題や矛盾、トレードオフ、あるいはコストの問題に対処することです。この役割は、私たちにしか果たせないものであり、デザイナーの仕事の大部分を占めるものだと考えています。そして、このことが意味するのは、デザインという行為はある種の政治的な探索であり、さまざまなものを巻き込み、関わりながら進めるべきものであるということなのです。
この「協議体」という概念は、フランスの哲学者・人類学者のブルーノ・ラトゥールが提唱した「モノの議会(parliament of things)」という概念から着想を得ています。ラトゥールは、近代社会が生み出したさまざまな破局を乗り越え、次の時代をつくっていくためには、その対象をモノにまで拡張した「新たな民主主義」を成立させる必要があると考えました。つまり、モア・ザン・ヒューマンなものたちをも含めた“対話”が必要である、と考えたわけです。私はその考えを、モア・ザン・ヒューマンなものたちとデザインする方法の一つだと捉え、それを発展させる形で、「協議体」という概念を構想したのです。
「謙虚さ」と「寛容」が世界を変える
——『ポストヒューマニズムデザイン』の邦訳は発売されたばかりですが、原著の出版からは4年が経っています。その間、この本がどのように受け止められてきたと感じていますか?
読者は実に多様です。AIやロボティクス、あるいは地理学など、本当にさまざまな分野からの招きを受け、講演をすることになりました。最も興味深かった誘いは、化石燃料後の未来について考えることを目的とした、オフサイト研修を実施している石油メーカーの社員たちに向けて講演をしてほしい、というものです。私が持つ「人間中心のデザインは危機に瀕している」という課題感と、彼らが直面している状況が共通の議題になったのです。
デザイン学術界の一員として、そして人間中心インタラクションという最もアカデミックなデザイン分野で働く者として、私はかねてから常に広義の「デザイン」に携わる方々にリーチしたいと考えていました。この本がそれを可能にしてくれたのです。
もちろん、この本にすべてを書き切れたわけではありません。出版されてから「書いておけばよかった」と思ったこともあります。たとえば、この本のベースにある多元主義や関係性の存在論、共有されたエージェンシーといった考え方は、西洋哲学の世界では新規性のあるアイデアかもしれませんが、少数民族文化などの知識体系においては何千年も前から存在していました。そのことをもっと明確に書いておくべきだったと思っています。
ですから、『ポストヒューマニズムデザイン』に書かれていることは、ある意味ではまったく新しく、理解しがたいことかもしれませんが、ある意味では全く新しくないことなのです。
——ポストヒューマニズムデザインはステークホルダーを無限に拡大することになりますが、一人ひとりのデザイナーは物理的な制約を受ける限定的な存在です。もし、私たちとは全く異なる時間のスケールで存在するあらゆるモノや要素までをケアする必要があるのならば、私たちは物理的な制約を超えて働く必要があります。私たちの有限性と、求められる無限の想像力の間にあるジレンマを、どう乗り越えればよいのでしょうか。
私は『ポストヒューマニズムデザイン』の中で「謙虚さ(humility)」という言葉を多用し、この本を「寛容(generosity)」という言葉で締めくくりました。
「謙虚さ」とは、いまあなたが言ったように、私たちの限界を認識することです。経済的な限界、生物学的な限界、そして人間中心主義の限界。それらがなくなることはありません。現在のデザイン教育は、このことを無視してしまっていると私は感じています。「想像力のスケールは無限であり、想像力は無限の利益を生む」と。しかし、私たちは自らが身体化された存在としてここにいることを、謙虚に認識しなければなりません。
では、私たちの「寛容」はどこに向けられるべきなのか。私は、私たちが抱える限界の中で「寛容」が及ぶ空間を創造することが重要だと考えています。寛容を向けるべきは、世界のどこかではなく、あなたの家の裏庭なのです。しかし、寛容を育てていくのには時間がかかります。
寛容とは、一つの小さな決断、そしてその次の決断を重ねるなかで築いていくもの。デザインとは、ほとんどの場合、「しないこと」についての決定です。何を排除し、何を含めるか。そして決定を下す際、何に対して注意を向け、何に焦点を当て、どのような意図をつぎ込むのか。その連続性のなかに、寛容は宿るのです。
そうして生まれる変化は、非常にゆっくりとしたものになるかもしれません。しかし、そのゆっくりとした変化は、幾多の時間を経て世界を変える力になる可能性を持っています。私はイノベーションや飛躍的な進化を志向するよりも、とてもスローで漸進的な変化を目指すことに賛同していますから。