未来ではなく「わたし」をズラす。村田沙耶香『世界99』が描く「現実」──石塚理華「『デザイン』をほぐす書物たちとの対話」#1

村田沙耶香の"ズラし"は"内側=現在の私"を揺らす態度に近い。パワーワードや突飛な設定に力強く巻き込まれ、笑いと居心地の悪さを行き来するうちに、当事者/加害者/被害者/傍観者としての自分の立場がめまぐるしく入れ替わる。

「デザイン」が価値を発揮する領域が拡張し続けてきた一方で、そうした動きも少し落ち着いてきたようにも思える。いま改めて「デザイン」にできることはなにか、問い直すことが必要な時期に差し掛かっているのかもしれない。

そうした問い直しは、狭義のデザイン分野の中だけにとどまっていては限界がある。いまデザインに必要なのは、従来の「デザイン」にとどまらない幅広い領域の知や創造に目を向けることではないか──。

連載「『デザイン』をほぐす書物たちとの対話」では、「デザイン」をほぐし、問い直してくれる書物との対話の軌跡を綴っていく。導き手は、一般社団法人 公共とデザイン 共同代表の石塚理華。行政・ソーシャル・イノベーション領域を中心に、従来のデザイナーの枠にとらわれず「デザイン」の価値を発揮し続ける石塚氏が、狭義のデザイン書に限らない書物から「デザイン」をほぐしていく。

第1回で取り上げるのは、村田沙耶香『世界99』(集英社、2025)。未来ではなく「わたし」をズラす物語が浮かび上がらせるものとは?

村田沙耶香『世界99(上・下)』(集英社、2025)
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(以下、版元紹介文より引用)
この世はすべて、世界に媚びるための祭り。

性格のない人間・如月空子。
彼女の特技は、〈呼応〉と〈トレース〉を駆使し、コミュニティごとにふさわしい人格を作りあげること。「安全」と「楽ちん」だけを指標にキャラクターを使い分け、日々を生き延びてきた。
空子の生きる世界には、ピョコルンがいる。
ふわふわの白い毛、つぶらな黒い目、甘い鳴き声、どこをとってもかわいい生き物。
当初はペットに過ぎない存在だったが、やがて技術が進み、ピョコルンがとある能力を備えたことで、世の中は様相を変え始める。

3年以上にわたる著者初の長期連載がついに書籍化。
村田沙耶香の現時点の全てが詰め込まれた、全世界待望のディストピア大長編!

友達から勧められてその場でポチったので、本が家に届いたときに「思っていたよりも厚いな」が最初の印象だった。重い腰を上げつつ手に取ってめくった冒頭1〜2ページからすでに、村田さん的な不穏さが押し寄せる。


・本稿にはネタバレが含まれています。『世界99』はネタバレなしで読んだほうが面白いと思います。
・特設サイトには本編にトリガーアラートが記載されています、ご注意ください。


「産めない」ことで女性の尊厳は失われるのか?
2023年度に公共とデザインで行った産むにまつわる様々な価値観の問い直しをする「産まみ(む)めも」プロジェクトでは、当事者・プレ当事者を集めたコ・デザインワークショップの参加者に向けて、「デザインブリーフ」を4つ作った。そのうちの1つの問いに「産める性である事は女性の尊厳なのか、産めないことでその尊厳は失われるのか?」というものがあった。

産まみ(む)めも | 公共とデザイン
https://publicanddesign.studio/prj_umamimumemo
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女性の身体は、産める性ゆえのままならなさをずっと抱えている。思春期から始まる生理による心身の不調、妊娠期間のコントロール不可な自分の身体と自分の人生やキャリアとの折り合い、ホルモン不調による更年期障害。出産体験とスピリチュアルがともに語られるなど、生身の身体と切り離せないレイヤーで、社会的な尊厳と身体性がつながっているのかもしれない。事前のリサーチから見えてきたそのような側面を問いの1つにしたものだった。

この問いを渡されたチーム内でのディスカッションでは早々に、「尊厳」という言葉自体を並べることがおかしいのではないか、と話が進んでいった。一方で、私個人としてはリサーチ・ヒアリングを通じて、生物的に産めることが社会的な役割や構造に強く反映されていること、そこを拠り所にしている多くの人のことを思い浮かべると、本当にそう言い切ってよいのだろうかと割り切れずにいた。

『世界99』の物語は、まさに私たちが「産まみ(む)めも」で取り組んでいた問いの1つ、女性の身体性と社会的役割の関係をまったく異なる角度から照射していた。たとえば記事後半で詳述するが、人間以外の存在が妊娠・出産・家事そして性愛を担うことで、産める身体をもつわたしたちに対する社会からの目線や役割が大きく変化する。身体性に根ざした尊厳が無効化され、内面化された女性性の様相も、沸き起こる感情もまったくの別物となる……そんな「あるかもしれない世界」を、否応なしに想像させられる物語だった。

フィクションの皮を被っている現実

食べることで、人間の身体を通して汚染された廃棄物を分解してきれいな土に返す「サラー」。プロ彼女ならぬ「プロ友達」。微笑み合い、マイナスの感情を持たず深く人にかかわらない「クリーンな人」。

あるかもしれない世界を想像するために物語るということは、SFプロトタイピングの領域にも重なる部分である。しかし、一般的にSFプロトタイピングが取り扱う問題の性質上、どうしてもシリアスなノリになってしまうことも少なくない。

村田さんの本はディストピアSFの型をつかいながら上手く「ズラしている」、と思う。このズラしは、SFプロトタイピングなどでもよく使う<もしも〜だったら?>の技法にも近い。ただ、予想の斜めをいくような突拍子もない設定やパワーワードが休むまもなく次々と繰り出されるので、一人でツッコミながら読んだりゲラゲラ笑ってしまう。そしてその後ふと、これって現実の社会の構造と一緒ではないかと、どきりとする。

たとえば、欧米諸国を想起させ皆が憧れる「ウエガイコク」と、東南アジアなどを想起させ何気なくみんなが見下す「シタガイコク」というパワーワードが出てくる。日本に対してウエである・シタであると他国を明示的に分けて表現する人こそ多くはないが、(私を含めた)世間の人たちの無意識の偏見や目線を確実に言葉に落とし込んでいる。

シタガイコクのことはよくわからない。私は「クリーンな人」で差別とかそういう感情はないから。私はウエガイコクに憧れることはあるけど、だからといってシタガイコクに嫌な態度をとったりはしない。でも、なんだか野蛮だなあ、とか、治安が悪くて怖いなあ、とおもってしまうことは正直ある。

(下巻・p37)

村田さんの物語はフィクションの皮を被っている現実の話なのだ、と思う。そして村田さんも意図的に物語に埋め込んでいる。

政治や差別の構造については、無関心を決め込んでいる人というより、気付いてすらいない層を描きたかったんです。この世に政治という仕組みが存在していることや差別思想に根拠がないことに、ナチュラルに気付いていない人はいますよね。

(出典:『世界99』刊行記念対談 村田沙耶香×岸本佐知子「人を、世界を実験し、誠実に書き留める」|集英社 文芸ステーション)

大げさな言葉やフィクションの皮で覆うことで、現実と少しズラす。たどり着くために必要な知識がないので、いろいろな人が物語から自然に入っていける。ズラすことで現実が見えてくる。現実かもしれない、という目線を否応なしに想起させる体験となる。

SFプロトタイピングのように、多量のコンテクストに支えられているからこその面白さもあるが、「教養」がないほとんどの人は近づくことができない。だから、想像や対話にまでなかなかたどり着かず、一部のインテリ層にしか響かない。その壁が先にありつづけるままで、「対話が大事だよね」と主張してもあまり意味がなく、同じテーブルにつくことがないから対話が始まらない。

正面対立が起こり、煽られ、対立構造が明確化されてしまうと、お互いの怒りの感情でもう取り返しのつかないことになってしまう。今の日本の現状の有り様がまさにそのようである。自分たちの活動の中でも、明確にポジションはあれど、真正面から「これは間違ってる」「こうあるべきだ、これが正しい」と声を上げて反対していくスタイルでのコミュニケーションや活動はあまり行っていない。アウトプットやそこで生まれる影響によって社会ににじみ出ていくことで、「ズラせる」のではないか。

世界への「呼応」と「トレース」による変容

世界99の主人公、「空子」という名前の女性も、まさに現代のわたしたちの姿を反映したような存在として登場する。「呼応」と「トレース」を繰り返し、その場にいる人の反応や口調、態度、価値観をあわせて振る舞い、生活する。その場で求められる「姫」「教祖」「おっさん」となり、時として価値観が大きく対立するいくつかのコミュニティに所属をし、それぞれの「世界に媚びる」。自分の性格の多面性が発露されているのではなく、「同級生」「友達グループ」「バイト先」の複数の世界に媚びている。

村田さんが芥川賞を取った『コンビニ人間』(2016)の主人公「古澤恵子」は、なかなか世界に馴染むことができず、振る舞いがマニュアル化されたコンビニの世界で初めて、世界と応答することができる感覚を持った。

対して、本作は令和の物語だ。空子は真逆である。

 (……)私はいつもこういう感覚の中にいるのだった。私という人間を、私ではなく、周りの人間が作り上げていて、中にはなにもない。みんなそうなのだろうと思っていたが、それぞれ、いかにも「本当の自分」があるように振る舞うのでよくわからない。私自身がそうであるように、他の皆の振る舞いもぜんぶ模倣なのかもしれない。

(上巻・p14)

世界に「呼応」し「トレース」しながら自らが変容していくことは、村田さんの作品では繰り返しでてくるテーマの一つである。短編集『丸の内魔法少女ミラクリーナ』(2020)にある『変容』でも触れられている。

私たちは変容生物よ。所属するコミュニティに合わせて、模倣して、伝染して、変容するの。あなたが私に世界を伝染させてくれなかったら、私だけが取り残されてしまう。

(村田紗耶香『変容』、『丸の内魔法少女ミラクリーナ』所収)

コミュニティによって<わたし>の違う一面を形成することがまざまざと描かれることに、きっとだれもがドキッとする。平野啓一郎さんの言う「分人」の話とも通じ、同じようなことを想起している人も多そうである。

しかし空子は成長するにつれて、物語の中で、空子は「自分は空っぽである」「性格がない」と何度も繰り返す。自分自身の安心と安全のために、その場で受け入れられる応答をする。対立するような世界に複数所属しながら、行き来をする。それぞれの世界に呼応し振る舞うだけなので、自分自身の多面的な発露というよりも、多種ある世界が人間のキャラとして発露されている状態に近い。

交わっていない「世界」を行き来すること

物語が進むと35歳の空子は主に3つの世界(後述)を同時に生きており、それぞれの世界は全く別の価値観に根ざしている。この3つの世界を比較する象徴的なキャラクターとして「油小路」という人物がでてくる。彼は、わたしたちの世界では迷惑Youtuberや私人逮捕系 YouTuberと呼ばれるようなポジションで、「ラロロリン人」に対する差別的な感情を擁護する、アクティビストとして活動している。ラロロリン人とは、人種や国籍関係なくラロロリンDNAを持つ人のことであり、ラロロリン人かどうかはDNA検査をすることでわかる。

彼への評価は空子が行き来をする3つの世界で大きく異なる。

「世界①」→救世主として称賛される


「油小路さんは本当にすごいよ。あの人がいてよかったよ」
「うちの娘もね、油小路さんがんばれって応援するんだよ、動画見せると」

「世界②」→無関心でほとんど誰も知らない

「あの、油小路さんってどう思いますか?」「あぶら……こ?なにそれ?誰、それ?」

「世界③」→差別を扇動すると批判の的

「すごくわかる。だから、この前の油小路の発言、本当に許せなくて、涙が出てきた」

根ざしている世界が異なると、1つの出来事や人物に対する認識も、ときには歴史ですら書き換わる。世界を行き来することは、X(旧Twitter)やinstagramで、「クラスタ」を行き来するのが感覚としても近いかもしれない。

ある一つの世界を知るために、特定のクラスタをリスト化したり、そのアカウントをつくったことがある人ならわかるかもしれないが、それぞれのクラスタには暗黙のルールのようなものがある。

たとえば、ママ垢(ままアカウント)界隈では、<🍼0y5m>などと子どもの年齢や月齢をプロフィールやアカウント名に入れていないと「同じ月齢の情報交換がしづらい」とブロックされたり、フォローを外す時はブロック解除をすることがマナーなど、独特なルールがある。

同じように、就活垢では業界名を🍣 や 🏢などの絵文字・隠語で企業名を伏せる文化があるなど、それぞれのクラスタにも暗黙のルールが存在し、いくつかのクラスタを行き来することは、それぞれのルールに則ることでもある。

私だけではなく世界が分裂していると感じるようになったのは、いつのころからだろう。それぞれの世界が、並行する異世界として、私の日常の中に並ぶようになっていた。世界は分裂したまま、同時進行していて、どの世界でどんな情報や言葉、感覚を注がれるかで違う私になる。

(上巻・p300)

SNS上では、△△垢や、XXクラスタのようにわかりやすいラベルがつき区別されているが、空子までいかないまでも地続きであるはずのリアルの世界でもそう変わらないのではないかと思わされる。

よく自分が引用する、カズオ・イシグロさんの「縦の旅行、横の旅行」という言葉(※)にもあるように、わたしたちの世界にもたくさんのレイヤーがあり、すべてが交わっているわけではない。隣に住んでいるはずの人の価値観はつながっていないかもしれない。

私達は、何も考えず普通に生活していると自分の生活環境や育成環境に近しい人たちのありかたが、固定的な「普通」と認知してしまう。

(※)
カズオ・イシグロさんは、ポピュリズムの台頭やパンデミック後の分断を語る中で、場所を移動しても同じ階層・価値観の人たちとだけ出会う『縦の旅行』と、同じ場所で暮らす隣人を理解し分断を超えるために知り合う『横の旅行』を比較して語っていた。

参考:カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ 事実より「何を感じるか」が大事だとどうなるか | 読書 | 東洋経済オンライン
https://toyokeizai.net/articles/-/414929
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忘却と改変、歴史の書き換え

物語の中では、時系列が変わっていく流れの中で、良いとされていたものが良くないものとなったり、良くないとされていたものが尊敬すべき対象になったりと、世の中の価値観ががらりと変わる。その一例として「ラロロリン人」の評価の遷移がわかりやすい。

ラロロリン人は、<差別される対象・差別されないように保護される対象>→<優遇されてずるい人たち>→<世界を再生していく恵まれた人たち>と、物語の中で次々に立ち位置が変化していく。わたしたちが暮らす世界の今の時勢を見ても、1つの対象について、時代によって評価が180度変わっていくような事は往々にしてある。

昔はラロロリン人ってすっごく酷い目にあってて、私もかなり迫害してたんだよね、とは言わず、私はまるで波ちゃんと全く同じ時代を生きてきた人間であるかのように笑う。

(下巻・p33)

わたしたちは5〜10年前に当たり前だったことも忘れながら生きていて、さも今ある価値観がこれまでもずっと続いてきたかのように振る舞ってしまう。だれかやなにかをキャンセルすることも、この忘却の上に根ざしている。前の時代にどのような評価をされていたものが今絶賛されていて、どうして変わったのか、前がどうだったのかを生きている中で忘れてしまう生き物でもある。

もちろん、当時声を上げられなかった過去の不当を明るみにすることも必要であるが、今の価値観で過去のあり方を断罪しても仕方がないこともある。きっと自分自身も多かれ少なかれ、知らず知らずのうちに歴史の認識の改変を行っている部分もあるのだろう。

女性性の外部化とピョコルン

物語の中で一貫してキーとなる存在が「ピョコルン」だ。ピョコルンは非常に可愛らしい、白くてふわふわな愛玩用の動物である。「外国の研究所で、パンダとイルカとウサギとアルパカの遺伝子が偶発的に組み合わさって出来た生き物」であるとされている。可愛いと思わない人は冷酷で残酷な人間だと判断されてしまうような愛らしさを具現化したような生き物。

物語が進むにつれて、ピョコルンは、第1世代から第2世代へ……と進化していく。やがてピョコルンは、人間の女性の代わりに妊娠し出産、簡単な家事や介護、人間からの性愛の引受を担うようになる。現在の女性が担っている多くの役割は、ピョコルンが肩代わりしてくれる。

「妊娠期間や出産を外部化できたら……」と、女性であれば誰もが1度は思ったことがあるかもしれない。ピョコルンはそんな空想を叶えてくれるが、当然、村田さんの物語ではハッピーエンドだけで終わらない。

そんな問いに対する解答とも言えるのが、かわいいが具現化されたピョコルンの存在によって引き起こされる、社会における女性の役割の大きな変化である。

性の対象は男女ともにピョコルンへと向かうようになり、人間同士は性愛よりも友愛が良しとされる。子供たちや若い女性たちは性的な目線を向けられるピョコルンに憧れ、ピョコルンに寄せるようなメイクが可愛いとされ流行する。そして、ピョコルンが家事や介護といったケアの役割も一部担うようになる。

日常の中で女性に求められる名前のない雑務や求められる気配り、他者の欲望を自分の体で受け入れること、出産による肉体の損傷。ピョコルンが出産、性愛、家族へのケアを肩代わりする。空子にとっても「女性としての役割を下ろせた」安堵感や、ピョコルンに重荷を肩代わりさせることのもやもや・罪悪感の両方が描かれている。

捨てることができるようになりましたよね。
 自分の性欲を、人生の時間のほとんどを食いつぶされてしまう日常の中の名前のない雑務を。「汚い感情」を。他者の「汚い欲望」を自分の肉体で処理される苦しみを。出産することによる肉体の損傷を。ピョコルンの能力でできる範囲の、最大限の育児を。さまざまな老いた家族の介護を。
 私たち、ピョコルンに、全部捨てれるようになりましたよね。そのことは、私たちを昔よりずっと、幸福にしましたよね?

(下巻・p65)

ただし、そう明るいだけの話ではない。女性としての役割をおろしても、構造が焼き直される瞬間が訪れる。空子は、ピョコルンを養う立場になると、自分が養っているのに、とピョコルンに苛立ちを覚えるようになる。少し前の時代に専業主婦の女性に対して「俺が養ってやってるんだから」と大黒柱の男性が文句を言っていたように。

受け身で、お世話をしたりケアをするのが好き、性的な相手を人間がいないとむしろ寂しくてより不幸になるから、と世間に思われている「設定」も、かつて様々な議論がおこなわれ辿ってきた女性の社会的なポジションと同じような道を辿っている。

そうなってくると、ピョコルンに産ませることがかわいそうだから人間が産むべきなのではないか、という逆説的な倫理論争も生まれてくる。性別による立場や役割が社会的に変化し、女性が現在の男性の構造的な位置立場に立つことで、同じような感情を共有する。

希望のある未来、もう一つの身体性の外部化

話は変わるが、先日、銀座で開催されていた長谷川愛さんらの没入型インスタレーション『PARALLEL TUMMY CLINIC 』を体験した。人工子宮の活用が一般化された未来を体験する。ピョコルンと同じように、女性は妊娠出産を代替する未来を想像することができるが、ディストピアを描く世界99とは異なりPARALLEL TUMMY CLINICの世界には希望があった。

「人工子宮」という技術が本当の解放を女性にもたらす可能性を秘めていると考えます。人工子宮は、妊娠出産の負担を軽減するだけでなく「血縁」という物語を強化する一方で、人工中絶を回避し養子という選択肢を広げる可能性もあります。"

(長谷川愛『PARALLEL TUMMY CLINIC』展示ステートメントより)

想像しうる未来のなかで、ピョコルンと比べるとだいぶ現実味のある未来であってほしい。同じ<身体機能のアウトソース>という話題を取り扱っているにも関わらず、行き先次第で絶望にも解放にも触れうるのだ、ということを2つの体験によって実感することができた。

『世界99』は外部化によって新たな権力や支配の構造がうまれる、現在の構造のアクターを変えた再演ともいえるかもしれない。『PARALLEL TUMMY CLINIC』は外部化することが、人生の選択肢拡張であるように感じられた。もちろんどちらも見方やそこで生まれるできごとによってディストピアにもユートピアにもなる。

"未来"ではなく"わたし"をズラすこと

「産まみ(む)めも」で向き合った問いから始まり、『世界99』を通じて改めて感じたのは、フィクションの"ズラし"が担う役割である。ズラすことで私たちが無自覚に受け入れている<当たり前>や社会的な価値観が輪郭を帯びる。

一般的なSFプロトタイピングが、"外側=未来"に仮説を置き、想像し、解決策を探る技法だとすれば、村田沙耶香の"ズラし"は"内側=現在の私"を揺らす態度に近い。パワーワードや突飛な設定に力強く巻き込まれ、笑いと居心地の悪さを行き来するうちに、当事者/加害者/被害者/傍観者としての自分の立場がめまぐるしく入れ替わる。

その違和感には解答を与えられず、問いのまま手元に残る。けれど揺さぶりが大きいからこそ語りたくなることで、物語を媒介としながら対話のテーブルにつくことができるかもしれない。ズラしは未来を語る技法だけでなく、"ここにいる私たち"を語り直す態度でもある。

【執筆】石塚 理華(いしつか・りか)
公共とデザイン共同代表。千葉大学工学部デザイン学科・同大学院修了。在学中にグラスゴー美術大学とケルン応用科学大学へ留学し、サービスデザインを学ぶ。大手事業会社勤務や受託開発会社の共同創業を経て、〈多様なわたしたちによる新しい公共〉を目指し、2021年にソーシャルイノベーション・スタジオ「公共とデザイン」を設立。企業・自治体・住民・社会課題の当事者と協働し、民主的社会環境を耕すプロジェクトを推進している。共著『クリエイティブデモクラシー』(BNN, 2023)。

Credit
企画・編集
小池真幸

編集、執筆(自営業)。ウェブメディアから雑誌・単行本まで。PLANETS、designing、CULTIBASE、うにくえ、WIRED.jpなど。

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