
「言葉」は何を失わせ、何を照らすのか?ベッセル・ヴァン・デア・コーク『身体はトラウマを記録する』──石塚理華「『デザイン』をほぐす書物たちとの対話」#2
身体がすでに「知っている」ことに、言葉が追いつく。そのときに初めて、自分に何が起きているのかを認識できる。
「デザイン」が価値を発揮する領域が拡張し続けてきた一方で、そうした動きも少し落ち着いてきたようにも思える。いま改めて「デザイン」にできることはなにか、問い直すことが必要な時期に差し掛かっているのかもしれない。
そうした問い直しは、狭義のデザイン分野の中だけにとどまっていては限界がある。いまデザインに必要なのは、従来の「デザイン」にとどまらない幅広い領域の知や創造に目を向けることではないか──。
連載「『デザイン』をほぐす書物たちとの対話」では、「デザイン」をほぐし、問い直してくれる書物との対話の軌跡を綴っていく。導き手は、一般社団法人 公共とデザイン 共同代表の石塚理華。行政・ソーシャル・イノベーション領域を中心に、従来のデザイナーの枠にとらわれず「デザイン」の価値を発揮し続ける石塚氏が、狭義のデザイン書に限らない書物から「デザイン」をほぐしていく。
第2回で取り上げるのは、べッセル・ヴァン・デア・コーク『身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法』(紀伊國屋書店、2016)。「言葉にする」という営みの限界と可能性、そして「デザイン」と響き合う点とは?
べッセル・ヴァン・デア・コーク『身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法』(紀伊國屋書店、2016)
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(以下、版元紹介文より引用)
世界的第一人者が、トラウマによる脳の改変のメカニズムを解き明かし、薬物療法の限界と、身体志向のさまざまな治療法の効果を紹介。私たちは何よりもまず、患者が現在をしっかりと思う存分生きるのを助けなくてはならない――世界的第一人者が、トラウマによる脳の改変のメカニズムを解き明かし、薬物療法や従来の心理療法の限界と、EMDR、ニューロフィードバック、内的家族システム療法、PBSP療法、ヨーガ、演劇など、身体志向のさまざまな治療法の効果を紹介する、全米ベストセラー。トラウマの臨床と研究を牽引してきたヴァン・デア・コーク博士の集大成。
■本書を通して私は、被虐待児とその親の臨床の中で疑問を感じつつそのままになっていた問題や、断片的な理解のままになっていた問題のほぼすべてに、明確な回答を与えられ、視野が何倍にも広がったような体験をした。本書は日本でも、トラウマに向き合わざるを得ない人々にとって信頼できるテキストとなるだろう。――杉山登志郎(「解説の試み」より)
■科学者の果てしない好奇心と、研究者の該博な知識と、真実を語る者の情熱が見事に融合したのが、ヴァン・デア・コーク博士によるこの名著だ。――ジュディス・ハーマン(『心的外傷と回復』著者)
■ヴァン・デア・コークは、見事なまでに明快で魅力に満ちたこの力作で、私たち読者(専門家も一般大衆も)を彼自身の旅に伴い、自分の研究、同僚や学生、そして何をおいても患者から学んだ事柄の数々を示してくれる。端的に言えば、本書は傑作だ。――オノ・ヴァン・デア・ハート(国際トラウマティック・ストレス学会元会長)
■この傑出した作品は、セラピストばかりでなく、トラウマが引き起こす途方もない苦しみを理解したい、防ぎたい、あるいは治療したいと望む人なら誰もが、絶対に読むべき一冊だ。――パット・オグデン(センサリーモーター・サイコセラピー・インスティチュート創設者)
■本書は、一般読者がトラウマの複雑な作用を理解するための最先端の作品であり、苦しみを軽減するばかりでなく、生き延びるのが精一杯の状態を抜け出して人生で成功を収めるための、科学的知見に基づいた多種多様な取り組みの案内書だ。――ダニエル・J・シーゲル(UCLA医科大学臨床教授)
■本書は、明快で、人の心を捉えて離さず、途中でページを繰るのをやめるのが難しい作品であり、胸を打つ症例記録に満ちている。トラウマ治療の大家ヴァン・デア・コークは、過去三〇年間にメンタルヘルスの分野で起こったうちでも最重要と言ってよい一連の大躍進を取り上げる。トラウマが脳内のつながりばかりか、心と体のつながりをも断ち切ることが本書で明らかになり、このうえなく深刻なトラウマを抱えた人でさえ、あらゆる部分を再びまとめ上げるのを可能にする、胸躍るような新しい取り組みの数々について、私たちは学ぶことができる。――ノーマン・ドイジ(『脳はいかに治癒をもたらすか』著者)
特定領域の社会構造や当事者の状況を知るためのリサーチとしての個別インタビュー、あるいは参加型ワークショップを含むプロジェクトなどを通じて、他者の語りに立ち会う機会がある。仕事の中で、その人が生きてきたこれまでの時間の一部をのぞかせてもらう。歩んできた暮らしの中のワンシーン、幼少期の家族との会話、他者から言われた何気ない一言で感じたこと、譲れない価値観がにじむ習慣。語りを通じて、その人の世界の見え方を共有してもらうことで、社会全体の構造を理解するための一つの手がかりにさせてもらっている。
そういった語りに立ち会い、その人自身の過去を思い返したり、今の自分とのつながりを内省してもらいながら話を聞いたりすることが、時にはカウンセリングのようだと感じることがある。初めて言葉をつけることで、かつての経験に意味を与え直したり、今の自分の視点から改めて解釈したりすることを行ってもらう。そしてワークショップのように他者と経験を共有し合う場では、同席する人とのあいだにある違いに気がつくことが、過去の自分と出逢い直すきっかけともなる。
センシティブな領域にまつわるインタビューは特に慎重に用意して挑む。その人が置かれている一般的な状況を頭に入れ、眼の前の人に敬意を示しながらその場に立つように心がけている。しかし、言葉にする行為自体がトラウマを強固にしたり、不用意に引き返せないほど傷つけたりしないかという怖さも感じてきた。治療としてのトラウマへの対処は医療行為であり、精神科医や臨床心理士などの専門的な知見が必要な領域である。インタビューの実施はカウンセリングに似ているタイミングもあるかもしれないが、明確に治療ではない。
ベッセル・ヴァン・デア・コークの『身体はトラウマを記録する』を手に取ったのは、そんなタイミングで言葉にしてもらうことの加害可能性に対してどのような観点があるのか、自覚的にありたいと感じたからであった。ヴァン・デア・コークはトラウマ治療の研究者・精神科医であり、本書はトラウマが脳と身体にどう刻まれるか、そこからどう回復しうるかを、臨床と神経科学の両面から描いた一冊である。この本が伝えているのは、トラウマは言語化される前に身体に刻まれるということ。身体が先に知っている、と言い換えられるかもしれない。
トラウマは現に生理的な変化を引き起こす。(中略)生きているという身体的な感覚、体を通して感じたり、表現したりする感覚を伝達する脳領域をトラウマが損なうことも、今ではわかっている。(pp13-14)
だからこそ言語化にはその見えざる記録を認識する力があるが、同時に言語化だけでは身体の奥にしまってある記録に届かないこともある。
人は、何が起こっているのかを認め、自分が戦っている目に見えない悪魔たちを認識し始めることができなければ、トラウマを引き起こした出来事を過去のものにはできない。(pp358-359)
この本を読むと、「人生に主体性を取り戻す」「個人の人生を味わい直す」という視点は、治療の文脈ではなくても参考になる箇所が多くあった。私たちもまた、プロジェクトやリサーチのなかで、関わる人たちがそれぞれの人生の主体でいられるための場をつくることがある。そうした探索的なプロセスにもヒントをくれた。「言葉にすること」がもつ作用について、この本をきっかけに考えたことを書く。
言葉を磨くと、遠ざかる
インタビューや登壇の場でよく聞かれる質問について語ることを私は個人的に“落語”と呼んでいる。テッパンネタ、とも言えるかもしれない。落語は聞かせる話としてブラッシュアップされていく一方で、話せば話すほど、生っぽさが失われていく感覚がある。
別の文脈で似たようなことを感じたのはとある対談の場で、精錬されすぎてしまうことで取りこぼすものに気づいたことがあった。社会に対するわたしなりの応答としての実践を洗練させていく過程で、「がんばらなくては」「誰かのためにやらなくては」「期待に応えなくては」と外的な誘因が大きくなっていくにつれて、最初にあった手触りが薄れ、〈わたし〉ごと遠くなっていく。
本書の中でヴァン・デア・コークは、語ることの側面について繰り返し警告している。
サバイバーの大半は、自分の症状や行動を一般向けに説明するために、彼らの多くが「作り話」と呼ぶものを、遅かれ早かれ用意する。だがそうした話は、その悲劇的体験の内なる真実を捉えていることは稀だ。(p80)
起こった出来事を伝わるようにするため、筋道立てて語ることは疑いようもなく良いことであり、むしろ世間的には推奨されることですらあると思われている。しかし彼は、そうすることでたちまちに自分自身とのつながりを失う、と言う。
社会の一員として本分を果たすためには、私たちは日々の人間関係の中で「クール」であり続け、自分の感情よりも目の前の課題を優先させることになっている。いっしょにいて絶対に安全だと思えない人と話すときは、自分の社会的な「編集者」が割り込んできて目を光らせ、不用意な言葉を抑え込んでしまう。(p391-392)
はじめて言葉にする瞬間は、手探りで不完全であるが、感じたことを即席的に表そうと試行錯誤するので、身体で受けたままの感覚に近い。しかし、繰り返して語るうちに、聞き手のリアクションを織り込んだり、伝わりやすく整えたりされ、物語として磨かれ完成度が上がっていく。語り慣れているものの中に、生の感情は発露されにくい。ままならないトラウマに理由を探し語るための「作り話」とわたしの“落語”は少し状況が異なるかもしれないが、ヴァン・デア・コークが「作り話」と呼ぶものは、こうして出来上がるのだろう。言葉にすることで、言葉にしにくいものは取り残される。
さらに認知科学者の鈴木宏昭は『私たちはどう学んでいるのか——創発から見る認知の変化』(筑摩書房、2022)の中で、言葉にすることで直感的な理解がこぼれ落ちる、と言葉の限界をこう指摘している。
コトバは、全体性を持つような場面や対象、また直感的な理解を表現するには適していない。そうしたものをコトバで表現すると、認識が阻害されることもある
言葉を繰り返し磨いていけばこそ、周縁にある言葉にできない感覚的で直感的なものは、自分の認識の外に追いやられ、なかったことになってしまう。
言葉にすると、照らされる
一方で、ヴァン・デア・コークはこうも書いている。
変わるためには、人は内部経験に心を開く必要がある。(中略)身体的感覚は一時的なもので、姿勢のわずかな変化や、呼吸や思考の変化に反応するのに気づくことだ。身体的感覚に注意を払ったら、次に、それを言葉で説明する。(p.341)
声に出して、他者に話せたなら、それは治癒が始まりうるところまで来たというしるしだ。(p380)
身体がすでに「知っている」ことに、言葉が追いつく。そのときに初めて、自分に何が起きているのかを認識できる。これはトラウマの治療に限った話ではないだろう。
ヴァン・デア・コークはトラウマ治療の文脈でこう述べたが、身体の感覚を言語化する営みは治療に限らない。身体知の研究者である諏訪正樹は「からだメタ認知」という概念を提唱している。身体の各部位や体感を丹念に言葉で表現してみるというメソッドだ。
諏訪は、ある体感を「くわっ」と表現してみることで、その体感それ自体への留意が高まると言う。「くわっ」と「ずしん」に気を留めることができ、類似や相違を身体で感じとって比較できる。言葉にせずに《○#&%!#》のままやり過ごしていたら、気に留めることも難しく、比較などは到底できない、と。
身体で感じたことを何かしらのかたちで言葉に表現することで、その感覚を一つの着眼点にする。気にとめることで初めて比較したり、他の自分の感じたことを紐づけることができるようになる。そして、気に留めることを繰り返すことで、感覚を捉えるための感度が上がり、感じ方そのものが変わっていく。
また、感情という内面世界に深く触れるための1つの方法は、書くことだ、と思っている。この文章の書き始めもまさにそうなのだが、私が少し長い文章を書くときには大抵、スマホのメモや社内Discordに残してた些細な言葉の種をかき集めることから始める。拾った種を並べて、うっすらと繋がりそうなところを重ねてみたりしながら文章としてしたためていると、ぼんやりと感じていたことや、まだ言葉にしていなかったことの輪郭がゆっくりと見えてくる。そして、だんだんと言葉や文章に「なる」ことではじめてグッと感情が入る瞬間がある。自分はこういうことを考えていた、だから嬉しかった、悲しんでいたり、怒っていたりしたのかと後追いで気がつく。スマホのメモに種を書き留める行為も、身体で表現する行為も、完成は一旦脇においておき、まずかたちにしてみるという点で同じ構造にある。過去の自分が何を感じていたのかに後から気がついたり、今の自分から改めて意味づけを行うように、かたちにすることが本人がまだ知らなかった自分を照らす。
参加型デザインの研究者であるLiz Sandersは、MakeToolsという手法を通じて、人は自分でも言語化できていない経験や価値観を、つくる行為を通じて発露させることができると示した。言葉で問われるとヴァン・デア・コークの言う「作り話」で終わってしまうことも、手を動かし、かたちにしてみることで、本人にとっても予期しなかったものが表れる。「身体が知っている」と書いたこととも通じる考え方だと思う。
こうした視点を踏まえて、『つくるをほぐす――完成を目指さないものづくりで学びとアイデアを生み出す「造形対話」』(英字出版、2025)の著者である山内佑輔さんとともに、とある法人の職員向けにワークショップを行う機会があった。「ライフ」と「ワーク」の間にある距離感を、参加者自身がどう感じているのかを発露し、新たに出逢い直す。今の職務やその環境と<わたし>の関係を見つめ直すことで、ローカルとしての職場における新しい営みや新規事業が始まっていくような場を意図してデザインした。
完成された言葉から入らないことを意識する。たとえば、「ライフ」と「ワーク」それぞれにおける最高の瞬間をまず身体で表してもらい、それをペアの相手に描いてもらう。色紙を使って「ライフ」と「ワーク」の「間」をイメージした作品をつくってもらう。かたちにしてから、その意味を一緒に言葉で探していく、という順番。参加者が自分の体験や感覚を初めて言葉にしようとするとき、言葉に詰まりながらも何かを伝えようとしてくれる。その瞬間に、その人の中で何かが動いて、何かが言葉として確定するのが見える。そしてその動きは、聞き手側にいる私の身体にも届く。
言葉になる前のものと居合わせる
言葉にすることで照らされる一方で、磨き続けることは身体から遠ざかっていくことでもある。同じ「言葉にする」行為の表裏なのかもしれない。ヴァン・デア・コークは、言葉が上滑りすることへの処方をこう書く。
言葉が上滑りするのを免れるには、自分を観察する、体に基づいた自己システムを稼働させるといい。このシステムは、感覚や、声の調子や、体の緊張を通して語る。内臓で経験する感覚を知覚できるのが、情動的自覚のまさに基本だ。(p.391)
本書の中で印象的な一節がある。あるPTSD患者に対して、用意されていない質問が投げかけられる場面だ。用意されていない質問を投げかけられた彼女は、抑えた調子の声で、診断後に父親が自分を相手にしたがらなくなったことを語った。
彼女はこの質問には答えを用意していなかったため、自分自身と対話せざるをえなくなった。(p.389)
“落語”にならない言葉は、用意されていない問いによって引き出される。逆に言えば、答えが用意できてしまう問いからは、すでに磨かれた、つまり身体から遠い言葉しか出てこない。用意されていない問いが身体に近い言葉を引き出すのだとすれば、すぐに言葉にならないことは悪いことではないのかもしれない。私自身は、もやもやの瞬発力が少なく、自分の感情に対して鈍感なので、もやっとしたタイミングで悲しんだり怒ったり突っ込んだりができない。なんだかよくわからない辛さに身体が引っ張られる日があるときに、言葉がまだ追いついていなかったことにふと気がつく。
最近は、はっきりとした言語化も断定もせず、もやもやをもやもやのまま抱えて寝かせて発酵する日を待つことの尊さがあると思うようになった。わかりやすい言葉にすることと同じくらい、わかりやすい言葉にしない決断も重要だと思っている。もやもやや違和感は見て見ぬ振りをせずに、ひとつひとつ拾って感覚のまま箱に入れて大事にとっておく。時々取り出して、指でなぞりテクスチャやかたち、少しひやりとした温度を楽しむ。持ち上げて光に当ててみたりする。熟成させ、時が来たら丁寧に並べてみると、また新しい側面が見えたりする。
プロジェクトのリサーチでも似たようなことをしているように思う。リサーチ期間は膨大な情報の海に潜りながら、同時に他者のコンテクストに身を浸す。情報を私自身に接続し、点を線でつなぎながら問いや仮説を立てる。インタビューの中では印象的な言葉をたくさんいただくが、その場だけでは解釈しきれない。ハイライトとして残しながら、「あの人はどうしてそう言ったのか」「どんなバックグラウンドがあり、その価値にたどり着いたのか」「彼・彼女を取り巻く社会の構造や状況はどのようなものなのか」そして、「その時、もしも自分だったらどんなことを思うだろうか」。湧き出てくる問いを閉じないまま、生活の中に持ち込みながら考えている。
そしてそのインタビューや対話の場では、まだ言葉になっていない時間に居合わせる。録音を文字起こしにすると消えてしまう、「ああ……」「ええと……」という言葉の前のフィラーや、言葉の間にある沈黙の時間。文字起こしには残らない「間」や「空気」のようなもの。それらは、言語化される前の身体の反応のひとつなのかもしれない。そして、言葉にならないままそれを伝えようとするとき、そこになかったなにかがたち現れる。
こうしたありかたに対して、とあるイベントで聞いた言葉が残っている。自分の悩みや状況をべらべら話す人は変われない。うまく話せない人、「胸が詰まるような感じがして」「うまくいかなくて」と言語化できないまま伝えることのできるひとの尊さ。そしてそういう人のほうが状況を変えていくことができる、と。経験したことのない違和感からは、状況に気がつかない。まだ言葉になっていない時間、つまり名前のない違和感を口にしてはじめて、自分の本当の状況に気がつき、変わることができるのだろうと思った。すらすらと語れる出来合いの言葉の中には、そのためのフックがない。
自分の内部で起こっている出来事と仲良くなる
私たちの感じ方を変えられる唯一の方法は、内部の経験を自覚して、自分の内部で起こっている出来事と仲良くなれるようにすることなのだ。(p337)
言葉にすることは照らすことであり、磨きすぎれば遠ざけることでもある。そしてまだ言葉にしないでいる時間のなかに、身体はすでに何かを"知っている"。このあいだを行き来しながら、身体がすでに知っている、まだ願いとも呼べないものを、社会への応答として何かしらのかたちに表してみる。他者の語りに立ち会いながら、自分自身の語り未満が変化させられていく。そんな道のりに同席させてもらうことが、私は好きなのかもしれない。
【執筆】石塚 理華(いしつか・りか)
公共とデザイン共同代表。千葉大学工学部デザイン学科・同大学院修了。在学中にグラスゴー美術大学とケルン応用科学大学へ留学し、サービスデザインを学ぶ。大手事業会社勤務や受託開発会社の共同創業を経て、〈多様なわたしたちによる新しい公共〉を目指し、2021年にソーシャルイノベーション・スタジオ「公共とデザイン」を設立。企業・自治体・住民・社会課題の当事者と協働し、民主的社会環境を耕すプロジェクトを推進している。共著『クリエイティブデモクラシー』(BNN、2023)、共訳にエツィオ・マンズィーニ『誰もがデザインする時代のデザイン:日々の営みからソーシャルイノベーションを生み出すための思想と実践』(BNN、2026)。