アクセシビリティは「付加価値」ではない。デザインにおける他者への「想像力」を育むには?──倉本仁×田中みゆき【連載:デザインとアクセシビリティをめぐるダイアローグ #1】

人間の社会がそもそも「人数の多いほうが力を持ってしまう」性質があることを、私たちデザイナーはもっとしっかり理解する必要があります。

アクセシビリティに配慮されたサービスや、インクルージョンを掲げ生み出されたプロダクトが、大きく注目される機会が近年増えてきた。デザインの世界においても、そうした文脈から「イノベーション」として評価されるものがいくつも誕生してきている。

しかし、その取り組みの多くは、障害のある人や高齢者、子どもなど「社会的マイノリティのため」の、「特別」なものとして理解されているケースも少なくない。あらゆる人の使いやすさを、当たり前に考慮していくデザインが未だ少ないのはなぜなのだろう。アクセシビリティやインクルージョンの視点が当たり前となるために、私たちに何ができるだろうか。

新連載「デザインとアクセシビリティをめぐるダイアローグ」は、キュレーター/プロデューサーの田中みゆきと、各分野の第一線のデザイナーとの対談から、これらの問題を考えていく。第1回は、プロダクトデザイナーの倉本仁をたずねた。

社会の構造的な歪みが今どのように現れているか、どうそれを全体で共有していくか。2023年度からグッドデザイン賞審査副委員長も務める倉本と田中が語り合う。

他者を「想像しづらい」社会での、デザインの難しさ

田中

これまで障害のある人たちと活動するなかで、アクセシビリティを専門とするようになりました。そこで感じるのが、私たちが普段使ったり見たりするものの多くが、未だに彼らを“ユーザーとして想定していない”ということなんです。昨年から始まった「合理的配慮の提供」の義務化でも、特別な人に対するやさしさ……みたいな意味で解釈されてしまう傾向があって。

もちろん優れた取り組みもあるのですが、まだまだ一般的とは言えず、インクルーシブな視点が含まれたデザインがあると急に賞を取ったりしますよね。そういう偏りをなくして、あらゆるものが普通にアクセシブルになるにはどうすればいいのか。機能的、あるいは美的に妥協せずにデザインに入れ込んでいく方法はあるのか。そんな問いについていろんな人と考えてみたいと思って、この連載を始めました。

キュレーター/プロデューサー 田中みゆき
「障害は世界を捉え直す視点」をテーマに、カテゴリーにとらわれないプロジェクトを企画。表現の⾒⽅や捉え⽅を鑑賞者とともに再考する。2022年ニューヨーク⼤学障害学センター客員研究員。主な仕事に、「ルール?展」(21_21 DESIGN SIGHT、2021年)、「⾳からつくり、⾳で遊ぶ。わたしたちの想像・創造を刺激する『オーディオゲームセンター + CCBT』」 (シビック・クリエイティブ・ベース東京、2024年)など。主な書籍に、『誰のためのアクセシビリティ?』(リトルモア)、『ルール?本 創造的に⽣きるためのデザイン』(共著、フィルムアート社)がある。

田中

例えば、ちょっとお洒落な料理屋さんって、必ず入口に段差があるんですよ。自分だけだと気づきづらいんですけど、車椅子の友人と行くと、そういう店舗はまず入れない。その理由をいろんな建築家に聞いてみたら、道路側との折衝の影響だったり、効率的な土地活用のためだったり、意匠的な狙いだったり、みんな答えが違いました。

これは建築の事例ですが、そういうふうに規格の問題やデザイナー自身の及ばないところの事情、意匠的な選択を優先してしまう背景などが、いろんな形でそれぞれのデザイン領域にもありそうだと感じたんです。プロダクトデザインの場合はどうなのか、まずは倉本さんに聞いてみたいなと思いました。

倉本

田中さんがおっしゃるのは、デザイン業界全体でずっと議論されてきたことでもあります。そもそも「誰が使うのか?」を想像することは、デザインプロセスで大きな要素ですよね。想像の対象が広がることは、「クリアしないといけない条件」が増えていくことになりますが、それはデザイナーにとって必ずしも悪いことではありません。むしろその条件自体をアイデアの種にして、新たな発想をすることもできます。

プロダクトの場合、JIS(日本産業規格)のレギュレーションが決まっていることも多いですが、やはりその都度、具体的な誰かの、これまで解決されていなかった問題を扱います。にもかかわらず、なぜ田中さんのおっしゃるような状況が生まれるのか。結局、最初のところで「想像できていない」ことが、問題を生んでいるのだと思います。

プロダクトデザイナー 倉本仁
1976年生まれ。家電メーカー勤務を経て、2008年 JIN KURAMOTO STUDIO を設立。プロジェクトのコンセプトやストーリーを明快な造形表現で伝えるアプローチで家具、家電製品、アイウェアから自動車まで多彩なジャンルのデザイン開発に携わる。金沢美術工芸大学客員教授、武蔵野美術大学非常勤講師、東京藝術大学非常勤講師。

倉本

想像できたうえで「あえてやらない」ということがあれば、明らかなシャットアウトです。良し悪しは別にして、そういう意志のもとに行われたデザインということになる。

でも今は多くの場合、無知なだけなんです。障害のある人の状況を知ることができれば、さっきのお店のお話でも、ほとんどのデザイナーは「段差がないとダメだ」とはならないはずで。むしろフラットを前提に、いかに使いやすくて美しいかが表現されていくと思います。

田中

悪気はなくて、ただ知らない。だからこそ、そもそも想像しづらい社会に今なっていることが、私は大きな問題だなと思うんです。自分と異なる人の暮らしを具体的にイメージするには、私たちってあまりにも“分かれて”生きていますよね。

例えば、学校でもまちの中でも、車椅子に乗った人が当たり前にいて時々話す、みたいなことってなかなかありません。その状況は、まさに「飲食店の入口で入れないような環境」がつくっている部分もあるけど、そもそも分けられているから「環境を変えなくてはという発想」も求められない……。どっちの要因が先というわけでもなく、ずっと堂々巡りだなと感じていました。

「ストーリーの丁寧な共有」で意識は変わる

田中

もう一つ、最近のデザインの例だと、まちがどんどん「タッチパネル化」していることも切実な問題だと感じています。もちろん便利に思う人もいる一方で、目の見えない人にとっては、どこに何のボタンがあるか全くわからない。駅などの公共施設だとまだ物理ボタンが横についていることが多いですが、商業施設ではほとんど考慮されていません。店員さんにわざわざ教えてもらって、場合によってはカードの暗証番号まで教えたりする。人権がすごく侵害されているなって思うんです。

ただそうした状況自体、全然知られていません。今ヨーロッパだと「欧州アクセシビリティ法」(European Accessibility Act:EAA)が適用されて、アクセシブルじゃないものへの規制などもすごく厳しくなっています。日本でもそういうアクションを通じて、業界全体へ意識を浸透させることはできないのでしょうか。

倉本

僕もそういうレギュレーションづくりが必要だと考えています。一方で、人の意識を変えるという点においては、デザイン自体にできることもあると思っています。

例えばほら、僕らがいま使っているテーブルって、木の節があるじゃないですか。これ、昔はなくて、節のない綺麗な木材だけが使われていたんです。それだとすごく木が無駄になるので、飛騨産業という会社が「私たちは節を使います」と宣言して、節がむしろいいアクセントになるようなデザインの製品を売り始めた。そこから人の意識が変わってきて、今では節がないと不自然に思う人も増えて、こういう製品があちこちで増えていきました。

田中

それ、すごく面白いですね。でも、何でみんな節があるものを「良いものだ」と思えるようになったんでしょう?

倉本

きちんと啓蒙活動をしていったからだと思います。「森のことば」というプロジェクトとして特別サイトをつくって、自分たちの思いを発信していった。けれどその発信は、「木の節が絶対大事だ」って言い方じゃないんです。製品の一つのキャラクターとして、こういう選択肢もあるから、気に入った人は買ってくださいねというスタンスでした。

森のことば | 飛騨産業株式会社【公式】 | 飛騨の家具、国産家具
https://hidasangyo.com/products/series/morinokotoba-2/
サイトを開く
田中

「いろんな人がいていい」と。そもそも多様である状況自体を肯定していったわけですね。

倉本

ただアイテムをデザインするだけでなく、ストーリーをしっかり共有する。それによって、理解が広がることがあると思います。もう一つデザインの事例を挙げると、車のジープとかランドローバーって、操作ボタンがゴツくて手触りがすごくガチガチなんですよ。なぜかというと、雪が降る寒冷地ではみんなグローブを着けて運転するから。結局さっきのタッチパネルの話とつながっていて、フィジカルなボタンが一番良いんですよね。

もしかしたら最初、「なんでこうなんだろう」と思う人もいるかもしれないけど、理由を知ったら多くの人が納得する。そうやって人の理解が得られていくなかで、より多くの人が使いやすいデザインも残っていくと思うんです。

ユニバーサルデザインの困難

田中

今のお話を聞いて、美意識の規範がいろんなものの邪魔をしていることもあるな、と改めて思いました。例えば、規格化され全て同じになることを美しいと思う、モダニズム的な感覚は、今も多くのデザイナーに影響を与えているのではないでしょうか。

「今はこういうものが新しい、美しい」みたいな話って、環境要因として大きいと思うんです。でも、そこで「そもそも人はみんな違うよね」という方向には、なぜかなかなか意識が向いていかないのを感じています。

倉本

確かにそうですね。

田中

同じ障害があるとされる人でも、実際はさまざまなケースがあって、一人ひとり全然違う。その中で“誰に合わせるか”って本当はすごく難しい話なんです。だから、いわゆる「ユニバーサルデザイン」は万能な解決策というわけでもなくて。

例えば「だれでもトイレ」ってありますよね。あのトイレって、実は目の見えない人にはすごく扱いづらいんですよ。健常とされる人は良かれと思って障害があれば誰でもそこに案内するんですけど、やたら広いし、トイレごとに配置も変わるから、毎回空間を自分で認識し直さないといけない。

もちろんおむつ交換や、車椅子からの移乗が必要な人などには、台がある広いスペースは重要なので有効です。ただ、あのネーミングで「全員が使いやすいものだ」と認識されたために、誤解が生まれているのも事実なんです。

倉本

それは知らなかった。おっしゃるように「みんな」だと、すごく万能みたいなイメージがありますね。

田中

何か一つのものですべてのニーズに対応しようとすると、どこかに無理が生まれます。しかも結局、障害のある人の中でも、車椅子ユーザーの成人男性を想定したデザインを「ユニバーサル」としているケースが多かったりして。そこでは、他の障害があったり、女性だったり子どもや高齢者だったりする人が排除されている状況があります。

最近は、そのカウンターのような形で「インクルーシブデザイン」の事例が増えてきました。さまざまな当事者を最初から巻き込み、個々の特性を生かすデザインを一からつくっていく。ただあれも、重要だと思いつつ、一つひとつ対応していくのは途方もない話だな……と正直感じています。

倉本

ユニバーサルデザインの難しさも、インクルーシブデザインの悩ましさもよくわかります。僕自身は、そこで手法の取り合いをしないほうがいいんじゃないかな、と思っています。むしろ、いろいろな概念が同時にフロートしている状況を認めていく。

確かに全員には無理でも、「できるだけ多くの人にそこそこ使えるものを届ける」という考え方だって別にあっていいと思います。ただその時に一番大事なのは、実際に使いにくいと感じている人が声をあげられる場があることです。「もっとこうしてくれよ」と言い合えて、そこでの学びが知識として広く共有されていく場をつくる必要がある。僕自身、いろいろ勉強しているつもりでも、今日田中さんに教えていただいた段差のこともトイレのことも知りませんでした。そういうことを伝えたい人がいるのに、他者に伝えられる環境がないのが、実は最も問題なのではないでしょうか。

アクセシビリティを「付加価値」にしない

田中

そういう情報のオープンソース化が進むとすごくいいですよね。一方で今、個人情報にすごく厳しいじゃないですか。良い事例も出てきているのに、個人情報の問題から「ここで得たユーザーの声は他には出しません」となるケースが多くて、知見としてシェアされづらい環境があるようにも感じています。

倉本

芸術資産のように、メーカーが囲い込もうとする感じはありますよね。誰かが勇気を出して、どんどん情報を出してみるような実験をしてくれると、変わってくるとは思いますが……。

ちょっと思い出したのですが、あるオフィス家具メーカーで、新しいオフィス空間を考える過程で自社オフィスを実験的にショールームにしている事例があるんです。あらゆるものを可視化して公開しているので、今までオフィスで「機密」とされていたことも見えてしまうようになっている。でも、そこはもう割り切っているんですね。何が不便でそれにどう対応するか、みんなに共有したほうがいいから。アクセシビリティを考えるうえでも、こういう挑戦が必要だなと思いました。

田中

誰かの困りごとって、本来もっとパブリックなものであるべきですよね。その意識がないから、各社バラバラなことをしてユーザーを戸惑わせてしまう。例えばさっきトイレのデザインについて話しましたけど、今の便器ってそれぞれに開発をした結果、水を流すレバーの形や位置が違うんです。そこは別に差別化するところじゃないんじゃないかなって。

あとは、特に障害のある人の声は今の環境だと希少だから、特別なものと思いすぎて「付加価値」として扱われているのも気になります。いつでもごはんを一緒に食べに行けるぐらい、気軽に聞きに行ける関係になっていけば、「この情報は自分たちだけのものだ」という意識もなくなっていくのではないかと思っています。

倉本

実際困るのが、プロダクトデザインの仕事って、製品の金型を一度つくってしまったらなかなか形を変えられないし、発売時期も決まっていることが多いんです。変更が効かなくなったあとに情報を聞いて、「もっと早く知っていれば……」と悔しい思いをするケースも少なくありません。

だからこそ、デザイナーが情報へアクセスできるプラットフォームのようなものがあると非常に助かる。困りごとがあればいつでも言えて、僕たちもいつでも知ることができる、そういう情報のあり方を設計するだけで、アクセシビリティは大きく変わると思っています。

「みんなの」でごまかさないデザインを

田中

プロダクトデザインについて、一つ根本的なところでお聞きしたいことがあります。できあがった製品って、おっしゃるようにすぐ変えられないですよね。それでも、アクセスできない人がいるとわかったときや、間違った使われ方をする場合が多いときって、どうするんでしょうか?

倉本

最近のプロダクトだと、ソフトウェアで細かくアップデートできるようになっているのは、一つ新しい可能性です。ただそれができないものだと、次のマイナーチェンジの時、例えば5年後にちょっと考えましょうか……というのが、現状よくある話だと思います。

僕らのような外部で関わる立場のデザイナーだと、開発を依頼されたとき、前回の製品で企業に届いた声を教えてもらい、新製品に反映していくことが多いですね。声の内容によっては、その前に金型から直すケースもありますが、例えば「こういう障害のある方が使えないとわかった」となっても、「直ちに費用をかけて変更しよう」と決まることは残念ながら少ない気がします。

田中

製品がアップデートするときに、ずっとその優先順位が下げられたままの人たちがいるな、って印象が私はあるんです。全体の人口が少ない場合、数の問題にされてしまった瞬間に、圧倒的に不利になるというか……。

倉本

そうですよね。今の民主主義のルールも含め、人間の社会がそもそも「人数の多いほうが力を持ってしまう」性質があることを、私たちデザイナーはもっとしっかり理解する必要があります。古き良き伝統を踏襲するにしても、多数派が中心になっていないか根本から疑っていかないと、そこに辿りつかないかもしれません。

ただ、「なぜそんな少ない人のために?」「わざわざ必要ないでしょう」なんて話を当たり前にしてしまう状況は、絶対に変えないといけません。そこは、誰もが同じ権利を持っているのだから、理由なんて必要ないんです。そこの考え方自体を変えることは、とても重要だと思います。

田中

当たり前の生活ができるって、トイレに行くとかだけじゃなくて、好きなレストランに行ったり、一人で映画を観に行ったりすることも含まれるはずです。それは別に贅沢じゃないと思うんですが、なかなか理解されない。アクセシビリティを考えるとき、人を機能の側面からしか見るのでは十分でなくて、ひとりの“人”としての満ち足りた暮らしを想像することが大切だと思います。

お洒落な料理店で飛び石の雰囲気が良いことは、私もわかるんです。ただその横に、もう1つフラットな道があってもいいと思うんです。だって「あなたは今後ずっと、外食はショッピングモールかホテルでしかできません」って言われたら、誰でもありえないと思うじゃないですか。

倉本

デザインとしては、いろいろなものがあっていいと思います。飛び石とフラットな道、両方の環境をつくるのも手だし、誰もがアクセスできてかつ、美しいデザインもありえるはずですし。逆にどこかの部分で使いにくいものをつくったのだったら、「今回はこういう意図で、あえてここは使いにくいものをつくりました」とわかるようにすればいいんじゃないでしょうか。

そういう責任をみんなが持つことが大事ですよね。自分のつくろうとしているものがどういう状況を生むのかを、きちんと理解してつくっていく……という言い方もできると思います。

田中

それ、すごくいいですね。海外だと「できないことはできないと言う」というアクセシビリティのガイドラインもあるのですが、近いなと思いました。曖昧だとより揉めるから、あらかじめ言っておくんです。その上で、どういう対応なら可能かを当事者と一緒に議論する。日本だと、それこそ「みんなの」みたいな表現で、“できているふう”に見せちゃうことが多いような気がします。

倉本

今みたいなトピックをもっとみんなで面白がりながら話せる状況になったらいいなと思うし、その方法を考えたいですよね。「ちょっとおいしいお店、確かに段差が多いけど、みんなでごはん食べれるほうがいいよね」って気づけば、「そりゃそうだ」ってなる人も多いはずです。そういう意識自体は高まっているから、例えば僕が審査副委員長を務めているグッドデザイン賞でも、アクセシビリティに優れた受賞作が増えている。ただ現状、個々のトピックにとどまって、横軸を通しながら話せる場所がないんだと、今日は気づかせてもらいました。

田中

先ほど挙げた情報のプラットフォームを作るのも良いですし、グッドデザイン賞などの中に場所があってもおもしろそうだなと感じました。話すだけじゃなくて、フィールドワークか何か、実際に動くこともぜひご一緒できたらいいなと思います。今日は本当にありがとうございました。

Credit
企画
田中みゆき

キュレーター/プロデューサー
「障害は世界を捉え直す視点」をテーマに、カテゴリーにとらわれないプロジェクトを企画。表現の⾒⽅や捉え⽅を鑑賞者とともに再考する。2022年ニューヨーク⼤学障害学センター客員研究員。主な仕事に、「ルール?展」(21_21 DESIGN SIGHT、2021年)、「⾳からつくり、⾳で遊ぶ。わたしたちの想像・創造を刺激する『オーディオゲームセンター + CCBT』」 (シビック・クリエイティブ・ベース東京、2024年)など。主な書籍に、『誰のためのアクセシビリティ?』(リトルモア)、『ルール?本 創造的に⽣きるためのデザイン』(共著、フィルムアート社)がある。

執筆
佐々木将史

編集者。保育・幼児教育の出版社に10年勤め、'17に滋賀へ移住。保育・福祉をベースに、さまざまな領域での情報発信、広報、経営者の専属編集業などを行う。個人向けのインタビューサービス「このひより」の共同代表。関心のあるキーワードは、PR(Public Relations)、ストーリーテリング、家族。保育士で4児(双子×双子)の父。

撮影
今井駿介

1993年、新潟県南魚沼市生まれ。(株)アマナを経て独立。

編集
小池真幸

編集、執筆(自営業)。ウェブメディアから雑誌・単行本まで。PLANETS、designing、CULTIBASE、うにくえ、WIRED.jpなど。

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