デザイン会社と事業会社。両者を越境するあり方と道筋──Takram相樂、キュービック篠原、LayerX野﨑

一昔前までは、デザイン会社で働いた先にステップアップする選択肢は限られていた。しかし、昨今では「独立」のみならず「事業会社での活躍」というケースも珍しくなく、さらには“再びデザイン会社へ戻る”といった選択をするデザイナーも増えつつある。

デザイン会社と事業会社を横断するデザイナーのキャリアのあり方には、いかなる可能性や選択肢があり得るのだろうか?

2023年9月、「不確実な未来を切り拓くキャリア観」をテーマに、ReDesignerとdesigningの共催で行われたイベント「Design Perspectives」。2つ目のトークセッション「デザイン会社と事業会社の越境キャリア」では、両社を越境しキャリアを積み重ねてきた面々がその道筋を語った。

登壇したのは、Takramのデザイナー・相樂園香、キュービックのCDO・篠原健、そしてLayerXのDesign Manager / Product Designer・野﨑駿。丸井とGoodpatchの合弁会社Mutureの執行役員・莇大介がモデレーターを務めた。

そのキャリアの軌跡と意思決定の背景、そして次なるチャレンジについて語ってもらった内容をダイジェストする。

デザイン会社から事業会社へ。その意思決定の裏側

本セッションに登場した4名は、それぞれがデザイン会社と事業会社を越境したキャリアを歩んできた。

両者を越境したキャリアとして、まずイメージしやすいのが、デザイン会社から事業会社へと移るキャリアだろう。

モデレーターを務めたMuture執行役員の莇もその一人だ。デザイン会社で10年以上の経験を積んだ後、GoodpatchにUXデザイナーとして参画。その後、2022年には丸井とGoodpatchの合弁会社に出向し、経営に携わっている。その中での判断基準を“川下り”と形容する。

「昨年までGoodpatchのUXデザイナーとして主にクライアントワークに取り組んでいました。ただ、自分の成長にやや伸び悩みを感じ、新たな挑戦機会を探していたんです。そんな折、Mutureに出向する話が出たので、『ぜひやらせてください』と手を挙げました。

その意味で自分のキャリアは『山登り』よりも『川下り』に近い。確たる判断軸があったわけではないのですが、常に機会を求める思考を持って動いていたので、決断に迷いはありませんでした」

株式会社Muture 執行役員 莇大介(モデレーター)

一方、莇と同じくGoodpatchで8年間の長きにわたり働き、マネジャーも務めたのが、LayerXのDesign Manager / Product Designer・野﨑だ。氏もまた、デザイン会社から事業会社へと移ったキャリアを持つ。

野﨑は制作会社を経て、GoodpatchにてUI,UXデザインに従事。同社でマネジメントも経験した後、2023年1月にLayerXに転職した。デザインマネジャーとして、プロダクトはもちろん、最近ではCI・VIを含むコーポレートブランディングの刷新もリードした。

SHIFTBRAIN&PARKと振り返る、LayerXコーポレートブランド刷新の軌跡
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野﨑「キャリアチェンジにおいては『プレイヤーとマネジメントを行き来できること』を大切にしていました。Goodpatchで働いていた後半はマネジメントや組織開発がメインとなり、現場の肌感覚がどんどん薄れているのを感じていたからです。

マネジャーとしてデザイナーのキャリア開発に携わる上でも、現場の肌感覚はある程度必要です。その感覚を取り戻したい気持ちもあり、あえてまだカオスな要素がたくさん残っていそうな会社としてLayerXを選びました」

株式会社LayerX Design Manager / Product Designer 野﨑駿

LayerXでは入社直後から、デザイン組織づくりにも取り組んでいるという。入社から7ヶ月が経過し、心境の変化を振り返る。

野﨑「現状は『4:6(プレイヤー:マネジメント)』の比率で仕事をしています。ただ、これまで一貫してクライアントワークに関わってきていたので、いざ自分が事業会社に入って感じる難しさにも直面しています。

たとえば、デザイン組織を立ち上げ、社内にデザイン文化を根付かせる難易度が想定以上に高い。今までは『デザイン』が主語の会社にいましたが、LayerXでは(デザインは)一部に過ぎない。デザイナーである自分が翻訳をしながら、共通言語を作り上げていくプロセスは一筋縄ではいきません。何度も粘り強くトライし続けていくのが重要だと思っています」

「デザイン会社か、事業会社か」は考えない。一貫した軸での意思決定が、多様なキャリアに帰結

他方、「デザイン会社か事業会社か」という軸ではなく、キャリアにおいて一貫した軸で意思決定を重ね、“結果として”越境していたケースもある。

TakramでCulture & Relationsチームのマネジャーを務める相樂は、その好例だろう。

新卒でロフトワークに入社し、FabCafeの企画・運営、そして企業コラボレーションに従事。その後、リブランディング期にあったメルカリに移り、ブランド施策やデザイン組織づくりに関わった。現在はTakramで社内外のブランドコミュニケーション、クライアント企業のビジョンや体験のデザインを担っている。

相樂はそうしたキャリアを振り返り、「あまりキャリアについて考えたことはなく、人との出会いを通して生まれたものが、次の機会を開いてくれている」と語る。

相樂「事業会社かデザイン会社か、という軸で考えてきたこともありませんし、大きな決断をしてきた認識もありません。ただ、自分の中で大事にしているのは、デザインとテクノロジーを自分が何のために使いたいのか、ということ。それらを何のために使えた時に一番嬉しいか、という基準で選択してきたような気がします」

Takram デザイナー 相樂園香

そのスタンスは新卒の頃から一貫している。一社目のロフトワークは当時公式で新卒採用を行っていなかったにもかかわらず、「ものづくり、クリエイター、モノが生まれる場所の三点に関わりたい」と直訴。アルバイトの形からFabCafeに開業時から携わる機会を得た。

しかしその数年後、ものづくりの現場に身を置いたことで、ある違和感を覚え始めた。

相樂「当時は世の中的にもオープンイノベーションが盛んな時期で、毎週のようにハッカソンやメイカソンが行われていました。しかし、プロトタイプの過程で大量の廃棄物が出ることに疑問を感じるようにもなりました。そんな課題感にある種のソリューションを提示していたのが、モノ自体を循環させる仕組みを作るメルカリだったんです」

相樂が入社したリブランディング期のメルカリは「デザイナーとしては夢のようにチャレンジングなタイミングだった」という。ただ、そのプロセスの中では、デザインの言語だけで全社とコミュニケーションを取る難しさにもぶち当たった。「自分が扱える言語の数をもっと増やしたい」──そんな課題意識からメルカリを退社し、次なる機会を模索した末、メルカリで一緒に仕事をしていたTakramへの転職を決めたそうだ。

一方で、他の三人とはやや毛色の異なるキャリアを歩んできたのが、キュービック・CDOの篠原だ。結果的に多種多様な環境を経験することになった篠原のキャリアの軸には、常に「誰かの役に立ちたい」という熱があった。

20代を映画の制作会社で過ごし、助監督や制作進行や美術などを経験。30代では博報堂アイ・スタジオでクライアントワークに従事。その後移ったドリコムではゲーム制作からデザイン組織づくりにまで携わった。それから数社を経て、一人目のデザイナーとして現職に入社。現在はCDOとして経営に携わりつつ、40名規模のデザイン組織を率いている。

株式会社キュービック CDO 篠原健

そんな篠原のキャリアにもっとも大きなインパクトを与えたのが3.11だったという。「世の中の人の役に立ちたい」という思いが、事業会社へとキャリアの軸足を移すきっかけとなった。

篠原「博報堂アイ・スタジオでクライアントワークに向き合っていた頃に、東日本大震災が起こりました。この震災が、世間体や今の立場を抜きに『自分が本当にやりたいことは何か』を見つめ直すきっかけになったんです。そうして『世の中の人の役に立ちたい』と考えて、事業会社であるドリコムに移りました。面接などお話しさせていただいた皆さんの目線が、自分や会社ではなく社会に向いていたので、一緒に何かできるのではないかと思ったんです」

ドリコムではデザイン組織のコンディションを悪化させてしまった経験をして、組織づくりの重要性を痛感。デザインマネジメントに関する国内外の文献を渉猟しながら、実際に自組織で応用を試みた。実体験を元にナレッジを構造化し、ノウハウを固めていった。

その後、数社での経験で得た学びをより多くの人々に広げていこうと入社したのが、キュービックだった。

篠原「僕が入社した当時のキュービックのデザインチームは組織崩壊した直後であり、ほとんど荒地に近いマイナスの状態でした。メンバーはほぼいない状態だから、ルールさえない。だから、こう思ったんです。『この状況を立て直し、整えることができれば、過去の苦い経験の贖罪になるのではないか』。何か自分の経験を活かして貢献できればと思い、ジョインすることを決めました」

プレイヤーとマネジャー、そして会社の垣根も越境するキャリア

ここまで見てきたように、デザイン会社と事業会社を越境するキャリアは、その道筋も背景にある理由も様々だ。だが両社を行き来する中で、組織内での役割や関わるレイヤーにも変化が出てくるケースは少なくないだろう。

とりわけ、プレイヤーかマネジャーか、という問題は多くのデザイナーがキャリアの途上で直面する問いの一つ。「つくること」が土台にあるデザイナーにとってはなおのことだろう。プレイヤーとして動ける比率を高めるべく、プレイヤーとマネジャーの両立を意図してLayerXに入社した野﨑は、その実情を次のように語ってくれた。

野﨑「思ったよりもプレイヤーとして求めてくれている部分が大きいのは嬉しいですね。やはりマネジャーだけをやっていると、デザイナーとしてのアイデンティティがどこか崩壊してくるというか……。テンションが下がってしまうんです。

バランスはともかくプレイヤーも一部兼務することで、楽しく働けている実感があります。もちろん、その時の組織状況で最大出力が出せるように調整はしていますが、自ら現場に降りて感覚を掴み、常に声を取り入れていく方が性に合ってると思っています」

このプレイヤーとしての時間を大切にする野﨑の指摘に、相樂も強く同意する。

相樂「よくわかります。私もメルカリでリブランディングを推進している時、ドキュメントを作っている時間の方が多いなという時期が長かったのですが、その中でもちょっとしたアイコンを作れる時間が癒しで。そういう機会が巡ってくると、『きたー!』という気持ちになりました(笑)」

プレイヤーか、マネジャーか──事業会社とデザイン会社を越境する中で否応なく生じてくる、関わりたいレイヤーの変化は、CDOという、一見するとマネジャー側に振り切れているポジションになっても続くと篠原も重ねた。その上で、氏は今後はさらにマクロな視座でキャリアを選択していきたいと考えているという。

篠原「今後はデザインの影響力を広げていくため、会社単位ではなく、デザイン業界としても連帯していきたい。将来的にはデザインの力を生かして日本自体にも貢献できる仕事がしたいと思っています」

デザイン会社と事業会社を越境するキャリアは、もはや珍しいものではない。さらには、組織内でのポジションや業界全体への視点、組織形態や企業文化など、数多くの変数が存在している。

そんな中で、自らが納得のいくキャリアを構築していくことは決して容易ではない。しかし、今回の登壇者の試行錯誤や意思決定の軌跡は、そうした不確実な時代での意思決定における一つの道標として、小さくないヒントを与えてくれるはずだ。

Credit
執筆
長谷川リョー

文章構成/言語化のお手伝いをしています。テクノロジー・経営・ビジネス関連のテキストコンテンツを軸に、個人や企業・メディアの発信支援。主な編集協力:『10年後の仕事図鑑』(堀江貴文、落合陽一)『日本進化論』(落合陽一)『THE TEAM』(麻野耕司)『転職と副業のかけ算』(moto)等。東大情報学環→リクルートHD→独立→アフリカで3年間ポーカー生活を経て現在。

撮影
今井駿介

1993年、新潟県南魚沼市生まれ。(株)アマナを経て独立。

編集
小池真幸

編集、執筆(自営業)。ウェブメディアから雑誌・単行本まで。PLANETS、designing、CULTIBASE、うにくえ、WIRED.jpなど。

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