ものづくりを根源から問い直す哲学対話「いま、そうぞうすること」 ——大原大次郎×下田悠太×三澤遥×藤澤ゆき×今井祐里

「創造」とは何か。
「創造」と「想像」は、いったいどんな関係性で結ばれているのか。

そんな根源的な問いについて探索すべく、前回の「Featured Projects 2023」において、最も白熱したセッションの一つとなった「哲学対話」が、「Featured Projects 2024」でも開催された。

哲学対話とは、複数人での対話を通し思考を深める手法。結論や正解、落とし所を急いで見出そうとするのではなく、参加者の視点を共有しながら、じっくりと思考を深めていくことが目的だ。問いから問いへ——必ずしも解を導こうとしないオープンエンドな問いの連続を泳ぐことで、日常を相対化したり、新たな物事の見つめ方へのヒントを見つけることができる。

グラフィックデザイナーの大原大次郎、折り紙・建築構造エンジニアの下田悠太、デザイナーの三澤遥、デザインレーベル「YUKI FUJISAWA」を展開するテキスタイルデザイナーの藤澤ゆき。4名のクリエイターが登壇し、「想像」と「創造」の両義的な意味を持つ「そうぞう」の意味と可能性についての対話が行われた。モデレーターはデザイナー/エディターの今井祐里が務め、Slidoを通じたオーディエンスとの対話もなされた。

異なるバックグラウンドと専門性を持つ登壇者が「そうぞう」という言葉を起点に、想像力の発現の仕方を「気配」や「合いの手」といったキーワードを持ち寄りながら探っていく。本記事では、その対話の軌跡をお届けする。

「デザイン」を「手探りと手遊び」と言い換えてみる

Featured Projects 2024の最終セッションとして開催された「哲学対話 今、そうぞうすること」。

哲学対話は普段の生活であれば通り過ぎてしまう、日常的な経験をもとに問いや違和感をじっくり考え、話し合う場である。セッションの冒頭では、モデレーターの今井から、哲学対話を行う上での心構えが共有された。

今井

①わからないことには、「わからない」と言おう。②なるべく理由を見つける。③「人それぞれ」をゴールではなく、出発点にする。④沈黙を恐れず、ゆっくり考える。⑤意見が変わることを楽しむ。今回の対話を通じて、皆さんにとって一つでも新鮮な問いを見つけ、お土産として持ち帰っていただければと思います。

今井祐里、大原大次郎、下田悠太、三澤遥、藤澤ゆき

参加者による自己紹介がなされたのち、「普段どんなときに『そうぞう』というキーワードを意識するでしょうか?」という今井の問いかけから、哲学対話が始まった。「想像」でも「創造」でもなく、あえてひらがなで記された「そうぞう」。イマジネーションとクリエーションの両概念はある意味で不可分の関係性であるという見方もできるだろう。

建築構造エンジニアである下田は、長い時間軸で人々の生活を支える建築物の設計における想像のあり方を語るところから哲学対話を始める。

佐藤淳構造設計事務所 折り紙・建築構造エンジニア 下田悠太

下田

建築構造エンジニアにとっての「想像」と言えば、まず第一に考えるのが建物の安全性についてです。例えば地震が起こったとき、どの部分が一番壊れやすいか、どんなふうに動くか、そうした予測を感覚的に想像しなければいけません。もちろんコンピュータに計算を頼る部分はありますが、人間の想像力が求められる仕事です。

一般に「エンジニア」と名のつく仕事はコンピュータを活用し、精密さが求められるため、ドライなイメージを持たれることが少なくないだろう。一方、下田は学生時代に友人と空き家を改装し、シェアハウスしていた頃の経験を振り返りながら、「材料の環世界」にまで「想像」力を及ばせていた記憶を語る。

下田

ボロボロの空き家を自らの手で改修する過程で、想像力が刺激されるんです。自分の周囲を支えてくれていた空間にある柱の木材は、数百キロの重量を70年間支え続けてくれていた。そのことに感動を覚えずにはいられない。瓦に雨が降ると、綺麗な音色が鳴る。60年間この空間を支え続けてきた柱はずっとこの音色を聴き続けてきたのかと感嘆してしまうのです。

自らの名前を冠するデザインレーベル「YUKI FUJISAWA」を展開するテキスタイルアーティストの藤澤は、ブランドを始めて以来取り組んでいるというアップサイクルの制作を引き合いに、下田から時間と想像のエピソードを引き継ぐ。

藤澤

例えば100年前にヨーロッパで誰かが着ていた服が、日本の徳島県の藍染を施され、表参道のブティックで売られている。おそらく最初にこの服を着ていた人はそんな光景を想像もしていなかったと思うんです。だからこそ私はロマンを感じます。

YUKI FUJISAWA 藤澤ゆき

日本デザインセンターで働く三澤は、博物館と協働したプロジェクトで出会った研究者によって、自分の想像力に関する価値観が破壊されたエピソードを紹介する。

三澤

例えば、ある島に固有の野生動物が交通事故で亡くなったとします。すると、その研究者の方はその島まで足を運び、毎回その遺体を引き取るのだそうです。「何体も保存する必要はあるのかな?」と疑問に思ってしまったのですが、研究者の方は現在のために収集しているのではなく、100年後、さらにいえば1000年後のためにアーカイブしているとおっしゃるんです。この時間感覚を自分ならどうデザインに応用できるか、と考えるきっかけになりました。

日本デザインセンター デザイナー 三澤遥

三澤から出たアーカイブの話を受けて、グラフィックデザイナーである大原は、自身がデザインにおいて大切にしている「手探りと手遊び」というキーワードを持ち出す。元来、大原はカタカナとしての「デザイン」や「クリエイティブ」という言葉に違和感を抱いていたという。

大原

デザインには計画や意匠といった辞書的な意味合いはあるのですが、自分が考えるデザインはもう少し手前にあるというか。言葉の本質の真ん中を射抜こうとすると外れてしまう感覚があるので、あえて手前から掘っていく。頭でっかちに知識やロジックから入ろうとせず、手探りや手遊びのアプローチの方が辿り着きやすいイメージがあるんです。

グラフィックデザイナー 大原大次郎

想像力を喚起する「気配」

ここまで、イマジネーションとクリエーションという両概念を包括する言葉としての「そうぞう」を取り巻く登壇者それぞれの考え方やエピソードが交わされてきた。それらを受けて、モデレーターの今井は「想像はなぜ人々の間に“感動”を惹起させるのか」という新たな問いを差し込む。テキスタイルアーティストである藤澤は「気配」というキーワードを持ち出し、この問いを展開させていく。

藤澤

私は元々、独特の臭いやシミがある古着が苦手でした。それでも、想像力を働かせてみると、そこには別の様相が広がっていきます。例えば、血痕のついた古着があるとします。それが仮に100年前の職人が工事現場で怪我をした際に付着したものかもしれない、などと想像力によって“気配”を感じ取ることで、感動を覚えるんです。

藤澤の手掛けるYUKI FUJISAWAでは、使っていくうちに生まれた汚れなどのダメージの上へ、金継ぎのように箔を重ねる修理サービスを提供している(写真提供:YUKI FUJISAWA)

藤澤の話を受けて、下田は以前に抱えたある疑問を思い出していた。ハウスメーカーによる建売住宅の街並みと、京都の街並み。どちらもそれぞれのルールに沿ってつくられた建築物の連なりなのに、醸し出される雰囲気には絶対的な違いがあるのはどうしてか。その差異を探るための仮説の一つとして、「気配」が有用かもしれないとの気づきを得たという。

下田

作り手の気配を感じると、そこには当時の“手遊びや手探り”の痕跡が感じ取れる気がして。そこには明確に大量生産とは一線を画す論理が垣間見えます。

大原は、グラフィックデザイナーという自分の仕事に“遊び”の余白があるのに対し、緻密さが求められる建築構造エンジニアにはどんな想像の余地があるのか、下田に質問を投げかけた。

下田

基本的には工学的なアプローチで構造を組み立てていきます。ただ、その過程で失敗したものをストックしておくことで、日常の見え方が変わることがあります。例えば散歩中に出会った木の樹皮が目につく。「木の肌になんでこんな皺が寄っているんだろう」と疑問が湧くと、実はその折り方が折り紙の世界で“吉村パターン”と呼ばれる手法と類似していることに気がつく。自分が抱えていた疑問が他分野の視点を取り入れることで解決されることがあるんです。

合いの手が「そうぞう」にもたらす波及効果

デザインを「手遊びと手探り」に置き換えて想像を仕事に生かしている大原は、下田の話を受けて新たなキーワードを場に持ち込んだ。それは「合いの手」だ。

会話における相槌、LINEの何気ない返信、音楽における手拍子、「合いの手」は形を変えながら私たちの生活に溶け込んでいる。大原は合いの手が想像の波及効果をもたらす営為として機能しているのではないかという仮説を提起する。

大原

先ほどのアーカイブの話にも通じるかもしれませんが、バトンをつなぐ存在を「合いの手を入れる人」として捉えてみたらどうでしょうか。自分が直接的な作り手ではなく、合いの手を打つだけの人だとしても、たしかに存在価値があるのではないか。傍目にはただ「よいしょ」と掛け声をかけているだけかもしれませんが、作用と反作用のごとく成果物そのものにも無視できない影響を与えているのではないかと。

ものづくりという総体的なプロセスにおける“合いの手”という所作。下田が先ほど挙げた散歩の例になぞらえれば、気配の感じ取り方やアンテナの張り方にも、合いの手の意識は伏在しているのではないかと大原は指摘する。だとすれば、合いの手は想像力を下支えする強力な道具、あるいは武器になり得る。

よりシンプルに“合いの手”をイメージしやすいのがコラボレーション(協働制作)だろう。藤澤はいつからか、壁打ち相手抜きの制作はしなくなったという。必ず意見や質問を投げかけてくれる誰かをアトリエに置いて制作を行う。

このスタイルに同調するのが、研究室を持ってからガラリと制作プロセスが変わったという三澤だ。

三澤

研究室のスタッフとの会話の中で、思わず「え?」と聞き返してしまうような、意表をつかれる言葉が出たとき、急にものごとが動き出す感覚が多くあります。思ってもみなかった角度からの意見を受け取ることで、自分の中で散らかっていた概念が整理されたり、消去してしまってもいいものがわかる瞬間がありますね。

建築における“合いの手”の可能性を考える上で、下田は図面が発明される以前の建築のあり方を回顧する。近代になり図面が発明される前、建築家と大工の職能は一体化していた。場合によっては住人自らが自分の家を作り替えながら暮らしていたのだ。

重厚長大な建築という業界に比べ、より合いの手が入れやすそうな服飾の世界はどうなのだろうか。アップサイクルを積極的に取り入れる藤澤は、合いの手が「自分の記憶が溜まっていく装置になる」とその可能性を展望する。

藤澤

自分が着ていた服にお醤油がこぼれてしまったとします。それをアトリエに送り、箔や刺繍のあしらいが施され、再び受け取る。デニムを使い込んで育てるのと同じように、自分の記憶を溜める装置として“合いの手”という言葉が機能する気がします。

デザインを「手遊びと手探り」に再翻訳するところから始まった対話は、想像力を喚起するキーワードとしての「気配」や「合いの手」を経由し、登壇者それぞれの専門性に基づくエピソードをいくつも回遊しながら展開してきた。セッションの冒頭、モデレーターの今井が哲学対話の心構えの一つとして紹介した「『人それぞれ』をゴールではなく、出発点にする」という提案をここでいま一度思い返したい。

結論や正解を求めない哲学対話は、時間が来れば終わる。しかし、「そうぞう」をめぐる思考の旅を共にした会場は、豊かな余韻で満たされていた。

Credit
執筆
長谷川リョー

文章構成/言語化のお手伝いをしています。テクノロジー・経営・ビジネス関連のテキストコンテンツを軸に、個人や企業・メディアの発信支援。主な編集協力:『10年後の仕事図鑑』(堀江貴文、落合陽一)『日本進化論』(落合陽一)『THE TEAM』(麻野耕司)『転職と副業のかけ算』(moto)等。東大情報学環→リクルートHD→独立→アフリカで3年間ポーカー生活を経て現在。

編集
藤田マリ子

1993年生まれ、京都大学文学部卒業。株式会社KADOKAWAにて海外営業、書籍編集に携わった後、フリーランスを経て、2023年に株式会社Nodesを創業。書籍やウェブ媒体のコンテンツ制作、ブランディング・マーケティング・採用広報支援を手掛ける。代々の家業である日本茶専門店・東京繁田園茶舗(1947年創業)の事業開発も行っている。
趣味は競技ダンス、ボードゲーム、生け花。日本ソムリエ協会認定ワインエキスパート。2歳児子育て中。

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