「利他」から考える「ちょうどいいデザイン」──伊藤亜紗×鈴木元

淡々とすることによって、誰もが使えるものとなる。それは「民藝」に似ているかもしれません。作家性もないしエゴもない。「見せてやろう」っていう思惑がない。それなのに美しいんです。

Focused Issues

本記事は、グッドデザイン賞2022 フォーカス・イシューと連動し、双方のサイトへ掲載されています。

家を出て一歩街に踏み出せば、目に飛び込んでくるのはグラフィックデザイン、プロダクトデザイン、パッケージデザイン……「特別な商品です」というメッセージを発しながら、誰よりもその声を大きく、目立つものにしようと企むデザインも少なくない。そうして購買意欲を煽られた消費者は、商品を購入していく。

本当に、それでいいのだろうか?

プロダクトデザイナーの鈴木元は、デザインの本来の役割を「特別にする」ことではなく、環境や技術、人との「ちょうどいい」関係を発見し具体化する知恵であり営みであると定義する。購買意欲を喚起する経済活動としてのデザインから、周囲の環境との均衡を探る営みとしてのデザインへ。フォーカス・イシューのテーマとして掲げた「ちょうどいいデザイン」という言葉の背景には、そんな鈴木の思いが込められている。

このテーマに対する思索を深めるため、鈴木が対談を申し込んだのが、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授で、グッドデザイン賞にも外部クリティークとして参加している美学者・伊藤亜紗。障害のある人の身体を研究している伊藤は、東工大内に設置された「未来の人類研究センター」で「利他」という概念を研究している。

利他こそが、「ちょうどいいデザイン」の探究に新たな視点を与えてくれるのではないか──そんな鈴木の仮説から始まったふたりの話は、合理性や経済性の外側にある「余白」の可能性へと展開していった。

親切心が裏目に。「利他」は有害か?

伊藤

いきなり本題から外れてしまうのですが、鈴木さんの手はとても美しいですね。私は身体の研究をしているので他人の行動を観察するのが癖になっているのですが、鈴木さんの手は、肌がきれいというだけでなく、動かし方も美しいと感じます。

鈴木

ありがとうございます。モノを触っている時の手がきれいと褒められることはたまにあります。プロダクトデザインをしているからか、モノに対する敬意みたいな感情を、他人よりも強く持っているのかもしれません。モノを触っていると、どこか、同時にさわられている感じがすることがあるんです。

以前、そんな話をしたところ、知人から「同じようなことを書いている人がいる」と、伊藤さんの書いた『手の倫理』(講談社選書メチエ, 2020)を紹介してもらいました。そうして、伊藤さんの研究を調べていくうちに、「利他」という概念を知ったんです。

デザインって、基本的には作り手が使い手の便利や快適を実現するために行うもの。それは「利他的」と表現できる行為だと思います。しかし、時にデザイナーの思いや企業の論理が優先されて利己的な表現になってしまったり、相手のことを思うあまりたくさんの機能を詰め込んで、結果的に使いにくいプロダクトが生まれてしまったりすることも多い。ですから本の中で伊藤さんがおっしゃっていた、目的やエゴを押し付けるだけでなく、受け手の可能性を引き出すことが利他だというお話に、「まさにこれはデザインのことだ!」と思ったんです。

伊藤

利他の研究は、文理問わず領域横断的な視点から行っているのですが、まさかデザイナーの方がこんなに強く反応してくれるとは思いもよらなかったですね。

ただ、そもそも私は利他という言葉が好きではなかったんです。なんだかわざわざ言葉にするのが口はばったい気がするし、むしろ有害なんじゃないかって。

鈴木

有害?

伊藤

私の研究テーマのひとつが「障害のある人の身体感覚」なのですが、障害のある人の周囲の方々が、「困っている人のために」と親切心を発揮する状況をよく目の当たりにします。もちろんサポートが必要な面もあるのですが、それが先回りの善意、過剰な善意になっていくと、本人のためになるどころか、行動を阻害したり、コントロールしたりすることにつながってしまう……そんな局面を何回も見てきたんです。利他的な感情からの行動であっても、結果的に人の可能性を潰してしまいかねない。

でも、利他を研究していくにつれて、受け手の可能性を潰すのではなく、可能性を引き出しながら、与える側をも変容させる利他の側面などが見えてきた。そうして、利他という概念に対する印象が、だんだんとポジティブなものになっていきました。

利他は合理性の外で「たまたま成立する」

鈴木

今回、僕はフォーカス・イシューのテーマとして「ちょうどいいデザイン」を掲げています。「デザイン」って、まだ一般的にはプロダクトやサービスを特別にしたり刺激的にしたりするために行われると考えられがちですよね。実際、デザイナーも物事を特別に見せることで、消費社会の片棒を担いできたことも否定できない。

でもデザインは本来、周囲と「ちょうどいい」関係をつくることだと思うんですよね。際限ない右肩上がりの経済成長を目指すことは限界を迎えつつあります。これからは多くの人が豊かに暮らせる社会基盤を充実させつつ、環境的な限界を超えないよう、不足でも過剰でもない「ちょうどいい」を目指す必要があると思うんですね。

伊藤

利他という概念も、経済活動で重視される「生産性」とは全く違う軸で行われるものです。というか、利他のほうがベースであって、その上で経済活動が行われているのだと思います。人間をはじめとする生物は、他者と共に生きたり、共に働いたりすることが不可欠です。

鈴木

生産性と同時に、利他は「合理性」も問わないですよね。「あなたのため」という気持ちから他者に何かを行っても、全然相手のためにならないことが多くある一方で、巡り巡って別の誰かのためになることもしばしば。全く合理的には進まない印象があります。

同様に、デザインも、合理性を目指すだけではうまく機能しない。どこか、合理性の外にある「余白」みたいな部分が大切なような気がします。

伊藤

「利他」という言葉からは「他者に何かをしてあげる」という能動性をイメージしますよね。でも、仏教では親鸞が『歎異抄』にて、聖道の慈悲と浄土の慈悲を区別し、聖道の慈悲、つまり自力で人が人を救おうとすると思うようにはいかない、と指摘しています。他者を助けたくなる気持ちが湧き上がるのは自然なことですが、それが思いどおり実現するとは限らない。自分のしたことが相手のためになるというのは、奇跡のようなできごとなのだと思います。

余白が生み出す「淡々と」したデザイン

伊藤

合理性に基づかない「余白としての利他」を、デザインに当てはめるとどうなるのでしょうか?

鈴木

今回、グッドデザイン大賞を受賞した「まほうのだがしや チロル堂」は、好例かもしれません。子どもたちは、1回100円でガチャを回し店内通貨を手に入れ、ご飯やお菓子を手に入れられる。この原資となっているのが大人による寄付です。もしも、ガチャという仕組みや駄菓子屋というフレームがなく、大人が寄付をして子どもが受け取るというだけの関係だったら、恵む/恵まれるという余白のない関係に閉じ込められてしまうでしょう。

しかし、チロル堂というシステムが入ることによって、そこに余白が生まれます。大人に対しては寄付する/されるという気恥ずかしさをなくし、ガチャという遊びを通じて子どもたちが持ってしまうかもしれない「支援を受けている」という負い目を排除できる。

地域で子ども達の成長を支える活動 [まほうのだがしやチロル堂]
貧困や孤独といった環境にある子ども達を、地域みんなで支える魔法の駄菓子屋。入口におかれたガチャガチャには、通貨の価値を変える魔法が仕掛けられている。「支援対象を限定しない」と発想を転換することで、支援が必要な子ども達にアプローチする機会と、大人が日常生活の延長で寄附をする機会の増加を同時に実現した

伊藤

チロル堂の取り組みはおもしろいですよね。これに似ていると思ったのが、神保町にある「未来食堂」です。一般的な食堂としても営業しているのですが、お客さんとして行くと、厨房でアルバイトをすることができます。50分アルバイトをすれば、1食分のまかないチケットがもらえる。ここで得たチケットは、自分が使ってもいいし、壁に貼っておいて誰かが使えるようにしておいてもいい。

そうすれば、困っている人だけでなく、誰もが使えるものになり、人を選ばずに助けを受け取れる。「支援」という概念が前面に出ない仕組みになっているんです。

鈴木

それはおもしろいですね。

伊藤

また、店内の雰囲気もとてもユニークで。実は、未来食堂の雰囲気ってどこか殺伐としているんです。「困っている人を助けます」というと、どうしても人情味のある温かなイメージが生まれてしまいますよね。そうするとて常連客ができ、その他の客は気後れして、支援を受けづらくなってしまいます。そうならないために、あえて淡々としたサービスに徹することで、誰も排除しない雰囲気を実現している。

鈴木

淡々とすることによって、誰もが使えるものとなる。それは、もしかしたら「民藝」に似ているかもしれません。日用品の中に「用の美」を見出してきた民藝の品たちは、どことなく淡々としています。そこには作家性もないしエゴもない。「見せてやろう」っていう思惑がない。それなのに美しいんです。

これまで、民藝に流れる美意識はプロダクトだけでなく、よくデザインされたサービスや取り組みにもどこか似ていると思いながら、その共通点をうまく言語化できなかった。でも、「淡々と」という言葉は、もしかしたらそれを言い表しているのかもしれません。自己表現のような賢しらな作為がなく、押し付けもなく、ただ淡々とそこにあるような。だからこそ多くの人が気負いなくすっと受け入れてしまう。

「淡々と」という意味では、グッドデザイン・ベスト100に選出された無印良品の「はじめての文房具」も、とても素敵です。子ども用の文房具には、キャラクターが表紙を飾っていたり、花柄や昆虫をあしらったデザインが多いですよね。けれども、この文房具では、余計な装飾を排して淡々としている。それが子ども達の想像力を引き出す余白となり、装飾を排したことで結果的に価格もリーズナブルになり、子どもたちに等しい教育機会を提供することにつながっている。

文房具 [はじめての文房具シリーズ]
小学生から使える「はじめての文房具シリーズ」。こどもや親、教師の視点も取り入れながら、学習する際に必要な要素を見つめ直して作ったという。過度な情報や装飾を省くことで、使いながら創意工夫ができる余白を残した文房具。気軽に手に取りやすいリーズナブルな製品となっている。

利他は意図せず「漏れる」もの

伊藤

お話をしていて思ったのですが、デザインって結婚に似ているのかもしれないですね。しっくり来て、ちょっと退屈なくらいのデザインが「ちょうどいい」のかもしれない。

鈴木

とくにプロダクトとは長い時間付き合っていくし、刺激的なだけでは飽きてしまいますからね。僕はよく、道具のデザインは白米みたいなものと言っています。刺激的なおかずのようなデザインもあっていいと思いますが、僕は美味しい白米をちゃんと作ることがデザインなんじゃないかと思うんです。

そう言えば伊藤さんも、『「利他」とは何か?』(集英社新書,2021)で、利他について、特定の目的を押し付けるのではなく「さまざまな料理や品物を受け止め、その可能性を引き出す『うつわ』のようなもの」として書かれていましたよね。

伊藤

はい。ただ最近は、利他を語る時に「うつわ」という比喩を積極的に使っていないんです。「うつわ」に込めていたイメージは、さまざまな計画のもと受け手をコントロールするのではなく、余裕や余白がある状況で「よい計画倒れ」を引き起こすということ。けれども、そう言ってしまうと「余裕がないと利他的な行為ができない」というイメージを同時に与えてしまう。そうではなく、利他とは、人と協力せざるを得ない時にこそ生まれるものだと思うんです。

その代わり、最近使っているのが「漏れる」という言葉です。これは、与えようとせずに「漏れてしまったもの」として利他のイメージを生み出してくれる。言わば、「うつわ」にひびが入って「漏れてしまった」ような。そんな、能動的ではない側面こそが、利他の本質的な部分なのかもしれません。

鈴木

「漏れる」というのは、とてもいいキーワードですね。

伊藤

植物の世界では、光合成で生み出された養分が菌を通じて根から漏れていき、他の木がその養分を使って成長できるようになっているそうです。だからうっそうと生い茂った光が射さない森の中でも、幼木が育つ。光合成ができる巨木は、小さな木がかわいそうだから養分をあげようなんて考えていない。ただ漏れているだけなんです。

人間は蓄えようとする存在だし、個人情報も漏洩しないように守るもの。けれども、本当は感情も表情も、いろいろなものが漏れているし、もしかしたら意識的に漏らすような仕組みを考えてもよいのではないか。境界線を超えて漏れていくものがあることによって、結果的に利他という現象がが生まれていくようなことがありえるんじゃないか。与えられたものを受け取るのは「お返ししなきゃ」という負債感を生むけれど、漏れていたものなら受け取りやすいですよね。

作り手と受け手を往復しながら「ちょうどいい」を探る

伊藤

ところで、鈴木さん自身は「ちょうどいいデザイン」を実現するために工夫していることはあるのでしょうか?

鈴木

そうですね……。ひとつは、生活の場でデザインを考えるようにしていることです。事務所を自宅に併設しているのですが、ある程度出来上がったプロダクトは、自宅の方に持って行って、生活の中に置いてみるんです。すると、作り手の目線では「ちょうどいい」と思っていたプロダクトでも、自宅に持って行き、子どもが遊んでいる横で見ていると「ちょっとカッコつけすぎかも……」と思ってしまうこともあります。

そもそも、プロダクトって、使っている時間よりも使っていない時間のほうが長いんですよね。だから、使っていない時間に「どうやってそこにあるのか?」という観点でも、デザインしなければならない。そうして作り手と受け手を往復しながら、「ちょうどいい」を探っています。

伊藤

鈴木さんの手がけられた「ちょうどいいデザイン」の事例ってありますか?

鈴木

いつも「ちょうどいい」を目指して作ってはいますが……例えば、オムロンの電動歯ブラシ『HT-B22X』は良い例かもしれません。

撮影:Gottingham

伊藤

あ、これ私が使っているやつだ!

鈴木

ええ!本当ですか?

伊藤

はい、軽くて使いやすくて。まさか鈴木さんがデザインされていたなんて!

鈴木

驚きました……でも嬉しいです。普通、電動歯ブラシって、売り場の中で目立つため、立体広告のような派手なデザインのものが多かったんです。衛生用品というよりも、まるで電動工具のように機能性を押し出す。でも、生活の中にあまり電動工具は置いておきたくないですよね。

そこで、普通の歯ブラシのように、静かなデザインにしようと思いました。電動歯ブラシの象徴であるボタンも目立たないようにして、生活の中で使いやすい「ちょうどいい感じ」を目指したんです。

伊藤

これまで使っていた電動歯ブラシは、機能的にもまさに電動工具的で、歯磨きをしているというよりも洗車をしているような気分でした。でも、この電動歯ブラシを使っていると、自分の手を感じて心地いいんです。使っていない時の存在感もとても気に入っています。

鈴木

ありがとうございます。最後にお伺いしたいのですが、伊藤さんの目から見て、いまの社会の中でのデザインの立ち位置って、どういうものだと思いますか?

伊藤

以前、私と同じくグッドデザイン賞の外部クリティークを務めている人類学者の中村寛さんとお話した時に話題となったのが、この世界を「デザインできる」と思っている若い人が少ないことでした。学生たちを見ていても、世界はあらかじめ完成されていて、ユーザーとしてそこに乗ることしかできないという諦めを抱いているように感じます。

もし、優れたデザインを通じて、この世の中がまだまだ「デザイン可能なんだ」「デザインしていいんだ」という希望が肯定されるなら、すごくポジティブな社会になっていくと思いますね。

鈴木

さまざまな人の思いや状況を受け入れる余白が、社会にも必要なのでしょうね。十分な余白は一見淡々として見えるかもしれないけど、それくらいの距離感が、押し付けにならず「ちょうどいい」のかもしれません。

デザインと利他の関係は、とても深いテーマですね。「ちょうどいいデザイン」を考える上で、今日はたくさんのヒントをいただけました。ありがとうございました。

Credit
取材・執筆
萩原雄太

1983年生まれ。演出家・フリーライター。サイゾー、CINRA.net 、美術手帖、XD、早稲田ウィークリーなどに寄稿する。『浅草キッド「本業」読書感想文コンクール』優秀賞受賞。

撮影
今井駿介

1993年、新潟県南魚沼市生まれ。(株)アマナを経て独立。

編集
小池真幸

編集、執筆(自営業)。ウェブメディアから雑誌・単行本まで。PLANETS、designing、CULTIBASE、うにくえ、WIRED.jpなど。

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