“人起点”で拡張し続ける、トヨタのUX──トヨタ自動車 山田薫

NTTデータのグローバルデザインスタジオ「Tangity」は、例年グローバルで「Tangity Directions」というイベントを開催している。"We humanize complexity."をミッションに掲げる同組織らしく、デザインの役割やその今後について考え語らう機会として、拠点ごとに運営をしているという。

2025年10月30日に開催された「Direction25 TOKYO」では「共鳴する未来」をテーマに設定。この変化が著しいAI時代に、CX、EXの両面から"人と組織の体験"について考える共創の場を設けた。designingでは全3本にわたり本イベントプログラムのレポートを掲載していく。

1:“人起点”で拡張し続ける、トヨタのUX──トヨタ自動車 山田薫(本記事)
2:coming soon...
3:coming soon...

「乗り心地」に代表される、体験価値の追求。トヨタが自動車というハードウェア開発で培ってきた“人起点の設計思想”は今、ソフトウェアを含むあらゆる側面に急速に浸透している。
その実践の最前線に立つのが、IT業界でデータサイエンスに携わったのち、2015年にトヨタへ転じた山田薫である。山田はトヨタにおけるUX担当者の役割を、「掲げたビジョンや期待される体験を、実際のプロダクトやサービスとして成立させること」だと表現する。

NTTデータのデザイン集団Tangityが主催する「Direction25 TOKYO」において、「技術と体験の融合──個人の体験がつなぐモビリティと社会」と題されたセッションに登壇した同氏。そこで語られた内容から、“人起点”で拡張を続けるトヨタのUXデザインを紐解いていく。

ハードからソフトへ──トヨタのUX変容

“世界のトヨタ”が今、大きな変革の渦中にある。販売地域のさらなるグローバル化、EV(電気自動車)の熾烈な開発競争、リースやカーシェアに代表される「所有から利用へ」という価値観の変容……様々な環境変化を受け、従来のビジネスモデルからの転換を迫られている。
なかでも大きな転換は、同社が「Mobility 3.0」と表現する戦略への移行だ。自動車という“ハードウェア”の品質だけでなく、「移動を通じて、どんな時間や感情を提供できるか」を追求するフェーズに入っている。

画像提供:トヨタ自動車

アプリやサービス、車内システムなど全ての顧客接点で体験の質を高め、新たな価値を創出する。そのために注力する対象のひとつにUXがある。
無論、これまでのトヨタもUX自体は重んじてきた。その思想は、同社が伝統的に“強み”としてきた領域に色濃く反映されている。スペックに表れない「乗り心地」を何よりも大切にする姿勢は、長年にわたりその競争力を支えてきた。

山田「実例の一つに、会長の豊田章男が自ら新型車のテストドライバーを務めていることがあります。「乗り味」や「フィーリング」といった数値にできない“体験価値”について、最後はトップ自らが責任を持ってチェックしているんです。

こうしたUXを重視する文化は、最近ではデジタルの領域にも浸透しつつあります。ペダルの踏み心地だけでなく、画面上の情報設計やオンラインサービスの体験設計にも力を注ぐ。UXの捉え方が、社内で確かに変化しているのを感じます」

実際、近年では自動車においてもデジタル上の接点が急増している。コネクティッドカー、スマートフォンアプリ、車内のマルチメディアシステム、クラウド型車両管理システム……。かつてハードウェアのなかで完結していた自動車のUXは、今やソフトウェアやサービスの領域も当たり前に取り込んでいる。

IT企業で自然言語処理や情報検索、データサイエンスに携わってきた山田が、トヨタに転じてUX向上に取り組んでいるのも、その変化を表しているといえるだろう。

山田 薫|トヨタ自動車株式会社 コネクティッドデータ基盤開発部/ InfoTech 主幹
IT大手を経て2015年にトヨタへキャリア入社。車両ビッグデータ分析や次世代デジタルコックピットのUX/UIデザイン統括を担当。現在はデータ高価値化のための分析やデータハブ構築、さらに先端技術分野へのUX視点の導入など、幅広い業務にあたっている。

同氏は注力する取り組みのひとつに、「マルチメディアシステム」の開発を挙げた。これは一般的に、ナビゲーションやオーディオ、ハンズフリー通話など、車内で操作可能なシステム全体のことを指す。

マルチメディアの機能充実と使いやすさは、自動車のユーザーにとって体験の質を左右する重要なファクターとなる。いまや多くのユーザーにとって、「この車は乗りやすいかどうか」と同じくらい「スマホ連携がスムーズか」「音声での目的地設定や操作がストレスなく行えるか」といった要素が、購入判断に影響するからだ。

だからこそ、同社もそのUX向上には余念がない。モデルが刷新される数年の周期の間に、山田たちは顧客からの問い合わせ分析やデータ分析、満足度調査など、様々なソースを活用して改善を試みる。

加えて、直近では今まで外部に依頼していた開発の“内製化”にも注力しているという。仕様書を渡して“完成品”を受け取る従来のやり方では、ユーザーテストで得られた示唆を素早く反映できない。そこで、素早く更新できる“内製型のものづくり”へと舵を切りつつあるのだ。

ビジョンとの“ギャップ”を埋める、人起点のサービスデザイン

次に、山田がUXの鍵と語ったのは「未来予測」だ。UX担当者はときに、人々の生活やニーズがどのように変化していくのか、未来動向の予測も担う。その予測から逆算して、体験設計の方針を示していく。しかし山田は、従来の未来の描き方だけでは、精度の高い逆算は難しいと指摘する。

山田「自動車メーカーを含め、ハードウェアを扱う企業は未来像を描くと、どうしても道路や建物、モビリティの流れといったハードウェアやインフラ側から発想しがちです。もちろんトヨタも例外ではなく、そうした発想自体を否定するつもりはありません。

ただ、それ“だけ”を頼りに未来のサービスを考えようとすると、「そこで暮らす人がどんな1日を送り、どんな場面で困るのか」まで想像するのが難しい。結果として、リアリティのあるアイデアに落とし込みづらいと感じています」

このギャップを埋めることこそ、UX担当者の腕の見せ所である。そこで現在、Tangityとも協働しながら進めているのが、インフラやハードといった「未来の風景」ではなく、その未来社会で「実際に生活するであろう人々」の具体的な像を、より精緻にする取り組みだ。

山田「念入りにヒアリングやリサーチを行い、「休日アクティブドライバー」「ご近所ドライバー(妻)」といった具体的なユーザーセグメントを作成しています。重要なのは、年齢や職業といった属性情報だけでなく、その人の価値観やライフスタイル、さらには「運転中に夫と会話しづらい」「慣れない場所の駐車場探しがストレス」といった具体的な困りごとまで、詳細に定義することです。

こうしてユーザーが求めるものを概念化することで、開発における共通言語を生み出し、より良い体験の提供につなげたいと考えています」

これは、いわゆる“ペルソナ作成”ではない。暮らしのシーンや感情の揺れ、家族との関係、運転に対する心理的なハードル……そうした情報を丁寧に編み上げ、「誰のためのサービスなのか」をチーム全体で共有できるほどの解像度を持つ。結果として、企画・開発・ビジネスなど、様々な職種の人たちが“机上の未来図”から“生活者の視点”へ目を向めるようになる。

とはいえ作り込んだユーザー像も、最終的にプロダクトへ反映されないまま、日の目を見ないことが少なくない。山田自身も、過去にそうした経験を味わってきた。

その理由は様々だ。たとえば開発工数との兼ね合いや検証不足、ROIの観点など複数の要素が絡み合って起こる。同時に、UX担当者がこうした“壁”を超える方法を「『体験価値』だけに囚われないこと」と表現する。

山田「UXの仕事は、“良さそうな体験”のアイデアを出すことではありません。ビジネスや技術の制約の中でもきちんと成立するサービスを設計し、そのサービスをとおして、掲げた体験をユーザーに届けることだと考えています。

体験価値だけを語っても、実装されなければ意味がなくなってしまう。だからこそ、様々な制約を理解したうえで、どうすれば実現するかを具体的に描き、形にすることが、UX担当者に求められている役割だと思っています」

そうした考えを踏まえたうえで、山田はUX担当者に必要なスキルを「観察・分析・数値化」「コミュニケーションを作る」「構想を伝え実行に導く」の3つで整理する。

  • 観察・分析・数値化:リサーチやデータ分析を通じてユーザーの行動や感情を捉え、課題を抽出する力
  • コミュニケーションを作る:プロトタイピングやインタラクション設計を通じて、“作る→試す→直す”のサイクルを素早く回す力
  • 構想を伝え実行に導く:ファシリテーションやストーリーテリングを通じて、多様なステークホルダーを巻き込み、戦略に落とし込む力


これらの項目は、一見すると“理想的なUX人材”の要件定義のようにも見える。しかし山田が強調するのは、「これを一人のスーパーマンに求めるべきではない」という点だ。むしろ、プロジェクトに関わるメンバーそれぞれが、自身の専門性を持ちながらも、少しずつこの領域に足を踏み入れていくこと。その積み重ねが、組織全体でUX向上を目指す文化へつながっていく。

“トヨタウェイ”が示す、UXを重んじる原点

セッション終盤、山田は同社の行動指針である「トヨタウェイ」について紹介した。

これは「ソフトとハードを融合し、パートナーとともに唯一無二の価値を生み出す」という、同社独自の価値観を示したものだ。単に効率よく車を作るための標語ではなく、「どのような姿勢で社会と向き合うか」を示すコンパスでもある。

画像提供:トヨタ自動車

なかでもUXと結びつく部分として、山田は「ソフト」の項目を挙げる。ここには「より良い社会を描くイマジネーション」と「人起点の設計思想」、そして「現地現物で本質を見極める」という言葉が並ぶ。

山田「これらの言葉は、まさにここまでお話ししてきたUXと密接に関わると思っています。けれど大きな組織だと、ユーザーの存在がどうしても、つい抜け落ちてしまうこともある。だからこそ、常に様々な切り口からユーザーの解像度を上げることが必要だと感じています」

「人起点の設計思想」や「現地現物」は、ユーザーの生活の場へ足を運び、自分たちの目で確かめながら本当に必要とされる体験を考える、トヨタのものづくりの姿勢そのものだ。それはハードウェア中心の時代に培われたマインドでもあり、Mobility 3.0を掲げる現在は、UXの土台として再び意味づけられつつある。

山田は最後に、トヨタが「Japan Mobility Show 2025」で掲げたブーステーマに触れてセッションを締めくくった。

山田「今回のブーステーマ「TO YOU」は、トヨタがこれからも、利用者一人ひとりに向き合う姿勢を表すために掲げられました。私自身も常にその姿勢を忘れずに、より良い商品やサービスの開発にあたっていきたいです」

モビリティの未来がいかに不確実であっても、常に“人起点”でUX向上を追求し続けること──。その姿勢とチャレンジは、モビリティに限らず、あらゆる業界で体験価値を高めようとする実務者にとっての、ひとつの指標になっていくはずだ。

Credit
執筆
栗村智弘

1997年愛知県生まれ。個人事業主、学生。株式会社インクワイアを経て独立。複数媒体の運営に継続してかかわりながら、スポーツや音楽、ビジネスなどの分野で取材や執筆、撮影も行う。早稲田大学文学部卒。競技歴は野球、バスケットボール、空手、陸上、ハンドボール。2024年4月から再進学。

Tags
Share