デザイン読書補講 16コマ目『デザインはどのように世界をつくるのか』
「デザイン」をこのように広く取り上げる書籍は日本国内でもあまり見かけませんが、その根底には英語圏における「design」が持つ定義の広さがあると考えられます。
supplementary readingこんにちはこんばんは、吉竹です。
この『デザイン読書補講』は「デザインを学び始めた人(主に学生)の世界を少しでもひろげられるような書籍をおすすめする」をコンセプトに連載しています。
わたしの自己紹介や、この連載が生まれた経緯は1コマ目『UX・情報設計から学ぶ計画づくりの道しるべ』で書いていますので「どういう人が書いているんだろう?」と気になった方は合わせて読んでみてください。
- デザイン読書補講 1コマ目『UX・情報設計から学ぶ計画づくりの道しるべ』
- https://designing.jp/supplementary-reading-1/
今日の1冊
デザイン読書補講 16コマ目にご紹介するのは、スコット・バークン『デザインはどのように世界をつくるのか』(千葉敏生訳, フィルムアート社)です。
- デザインはどのように世界をつくるのか
- https://www.amazon.co.jp/dp/4845920204
選んだ理由は読み進めるたびに「自分が学生時代に読みたかった!」と何度も思わされたからです。
良い読書体験とはなんだろうかと考えたとき、それは自分の内側にしっかりとした存在として残ることなのではと思います。その本を読んだ結果、世界の見え方や自身の思考が変わったという全体的な経験がこびりついて離れない……学生時代、デザインを学んでいた自分にとってのそれは『誰のためのデザイン?』や『SUBJECT TO CHANGE』、『デザインのデザイン』などでした。
きっと本書も多くの人に同様の体験をもたらしてくれるのではないか。そんな期待を込めて選びました。
デザインという多面体
本書の特徴を一言で表すと「デザインという多面体を様々な角度から眺められる本」と言えるでしょう。デザインがスタイリングと同義だと思われていた時代から、今では少しずつ「どうやら見た目だけがデザインではないらしい」と認識が改まってきました。デザインが担う幅広い意味合いに本書はスポットを当てており、その広範さは目次を見れば一目瞭然です。
「デザイン」をこのように広く取り上げる書籍は日本国内でもあまり見かけませんが、その根底には英語圏における「design」が持つ定義の広さがあると考えられます。それは本書中の、アメリカのとある政策に言及した文脈で引用されたレイ・ラムジーの言葉にも大きくあらわれています。
歴史が雄弁に物語っているにもかかわらず、人々は特定の出来事が意図的にではなく怠慢によって引き起こされたと信じたまま、眠りにつくのだ(p.111)
「多面体」と称したように、章が変わるごとにトピックの傾向もがらっと変わります。中でも「対価を払う人がいる」「価値とトレードオフ」「解決策は問題を生み出す」などの章は、やや珍しさを感じるかもしれません。
もちろん世の中にあるすべてのデザインを網羅できているわけではありませんが、多くの人の視野を広げてくれる構成となっています。学生には講義を補強する一冊として、すでにデザイナーとして働いている人には自分の現在地を見つめ直す一冊として、デザインに少しでも関わりのある人(5章のタイトルは「誰だって何かをデザインしている」です)にはデザインの奥深い世界へ案内してくれる一冊として、それぞれ助けとなってくれるでしょう。
そんな本書では「よいデザインとはなんだろう?」が通底したテーマとして書かれており、読み進めていく中で学んでゆく道程も丁寧につくられている印象を受けます。
まず1章『すべてのものにデザインがある』では、2019年に起こったノートルダム大聖堂の火災を取り上げながら、わたしたちの身の回りにある有形無形のものごとが人間の手によってデザインされている事実を述べています。
自然界を除けば、あなたの好きなもの、嫌いなもの、使ってきたもの、購入してきたもの、そしてその購入に使ったお金自体でさえ、みんな人間の手によってデザインされ、つくられたと言える。世のデザイナーたちは、そんなあなたの身のまわりのものをつくるため、数週間、数カ月間、または数年間がかりで何百回という判断を下した。その何百種類という候補のなかで、あなたが実際に体験できるのは、よくも悪くも、そのデザイナーの下した最終判断だけなのだ。(p.9)
続く2章『つくることとデザインすることの違い』では「デザインするとはどういうことか?」について語り、3章『よいデザインとは?』以降はさまざまな領域の事例を取り上げながらテーマと突き合わせています。チーズバーガーやシートベルトといった身近な製品から都市計画までスケールの大小に関わらず取り揃えており、組織やチームなど無形のものもあれば、果ては拷問器具にまで言及されていることからもその幅広さがわかります。
個人的には、まず本書の幕開けがノートルダム大聖堂の火災である点に興味をかきたてられました。
「デザインはどのように世界をつくるのか」と提示されたうえで最初に目に入るのが、広く売れている製品やスターデザイナーが手掛けたデザインではなく、歴史的建造物の火災というショッキングな出来事であり、それに絡めてデザインの関係性が語られることで本書の読書体験の全体像がうっすら見えてくる導入は、フックとしてうまく機能していると言えます。
そして2章『つくることとデザインすることの違い』。ここは特にデザインを学び始めた人にとって示唆に富む章となっています。わたし自身もそうでしたが、おそらくほとんどの人は「つくられたもの」に興味を持ち「つくること」に楽しさを見出し、そこから将来なりたい職業としてデザイナーを意識しはじめるのではないでしょうか。一方でこの流れには「デザインすること」への気付きが抜け落ちています。だからこそ、最初に書いたような本に出くわすとある種のショックというか「デザインってそういうことなのか!」的な開眼が待っているのですが、それに近い効力がこの章にはあるような気がします。
私が言う「つくる」ことの目標は、ただただ何かを完成させることにすぎない。一方、何かを「デザインする」こと、それも「うまくデザインする」ことの目標は、誰かのために何かを改善することだ。何かを正確につくっただけでは、適切なものをつくったことにはならない。(p.19)
ただ一方でこの言説が「つくることすべての否定」ではない点には留意すべきでしょう。ここでは「つくること=ただただ何かを完成させること」と定義されており、原著の章見出しがBuilding vs. Designingである前提を考慮すると、タイトルに含まれるMakeや11章で言及されているCreativeとは異なる意味合いを持たせていると考えられます。「ビーチで砂のお城をつくったり、レシピなしでチョコレート・チップ・クッキーをつくったりするだけなら、勘でデザインするのもいいだろう(p.29)」とあるように、他者への影響がわずかな自己中心の思考やプロセスを「誰かのために適切にものをつくる」デザインに持ち込む姿勢への警鐘がうかがえます。
こうした態度に対して本書は要所要所で鋭い言葉を投げかけており、それは「通りすがりのデザイン」に顕著にあらわれています。
通りすがりのデザイン
「通りすがりのデザイン」は日本だと「勝手にリデザイン」と呼んだほうが馴染み深いと思います。
例えばあなたが、日常でふと目にしたデザインに対して「だめなデザインだな」とか「自分だったらこういう風に改善できるのにな」と感想を抱いたとします。そして、実際に制作したものをSNSなどに「自分はこう感じたので、こう直してみました」と投稿する。こうした一連の行為が「勝手にリデザイン」にあたります。
12章『ポケットのなかにはチケットがひとつ』では、「残念なデザイン」の航空チケットをリデザインしたデザイナーの話を端緒に、通りすがりのデザインの危うさについて書かれています。
トンプソン氏のデザインは一見するときれいなグラフィックでまとめられており、視認性も向上したように感じ取れます。また、リデザインプロジェクトをまとめたサイトでは第三者からの意見を募ったり、他の人が手がけたリデザイン案も紹介していたりと、単に自分が作って発信するだけでない広がりを持たせています。
- BOARDING PASS/FALL
- http://passfail.squarespace.com/
しかし「顧客にインタビューして現在の問題を理解したわけでも、人々にプロトタイプを使ってもらい、観察した内容からヒントを学び取ったわけでもない(p.125)」デザインは、前述の砂のお城やチョコチップクッキーを思い出させます。
あなたのアイデアを実現できないとしたら、いったい誰のためにデザインしていると言えるだろう?(p.127)
そもそも何故、通りすがりのデザインが生まれるのか。その最たる要因はおそらく「つくりやすさ」にあると考えられます。すでに成果物として情報が出揃っているのだから、あとは自分の好きなように手を加えればよいわけです。しかし、それでは「ただただ何かを完成させること」でしかありません。
通りすがりのデザインは「頭の体操としてはよい(p.127)」かもしれませんが、著者が以下で述べているように手が加えられた元デザインに関わる企業やデザイナーにもたらす影響にまで考えを及ぼすべきでしょう。
通りすがりのデザインは、それがあまりに批判的な内容だと、おそらくクライアントや企業の依頼で仕事を行ったデザイナーを、不当に不利な立場へと追い込んでしまう。多くの場合、彼らは自分の仕事について公に弁明することができないし、デザイン上の制約について説明することだってできない。デザイナーは、ほかのデザイナーの仕事を公に批判するときには、この行動規範を肝に銘ずるべきなのだ。(p.125)
「あまりに批判的」とあるように、トンプソン氏がリデザインをするにあたって書いたテキストの言葉はなかなかに強めです。
まるで誰かが目隠しをして、ウイスキーを5分の1飲み、100回転し、ラバに顔を蹴られ(これをデザインした人は間違いなく家の中でラバと暮らしている)、それから搭乗券に数字と文字をランダムに吐き出したようだった
たしかに元のチケットを見れば、言葉の強さは除くとしてそう思いたくなる気持ちや「自分だったらもっと良くできる」と行動したくなるのも理解できます。日常的に世の中のデザインを観察して、何かひっかかりを感じたら手直ししたいと思うのはデザイナーの習性と言ってもよいでしょう。ただ(よほどの重大さや緊急性がなければ)手を動かしたり批判する前に「なぜこうなったのか?」「どんな意図が隠れているのか?」を思考するほうが、デザイナーとして誠実な向きであるようにわたしは感じます。
どこかで残念なデザインを見かけたら、どういう経緯でそれが生まれたのかを考えてみてほしい。私たちが体験するデザインは、デザイナーが対処しなければならないビジネス、組織、エンジニアリングの課題全体から見れば、氷山の一角にすぎないのだから。(p.128)
一方で「通りすがりのデザイン」を頭ごなしに否定せず、有用に機能するシチュエーションを考える余地も残っているはずです。
例えば「技術力の向上」や「自分がカッコいいと思うデザインをつくりたい」が目的であれば、その手段がリデザインである必要はありません。ですがリデザインされる側、つまり企業主体で動くケースであれば、そこには関係性が生まれます。過去には料理レシピ動画サービス クラシルのCXOの坪田さんが、自社サービスであるクラシルのリデザイン案を募るツイートをしていました。
サービスを勝手にリデザインすると怒られる流れがあるとのことでして、クラシルは題材に使ってもらって構わないので、どんどんリデザイン案欲しい。
— 坪田 朋 / クラシル (@tsubotax) October 1, 2019
こうしたお墨付きがあれば「勝手に」でも「通りすがり」でもないリデザインへとつながり、お互いに良い関係性を生むのではと考えられます。
あるいは採用の場で、限界まで調査や検証をおこない、限りなく現実に即したリデザインを提出できれば、それは自身の熱量を伝えられる手段として機能するでしょう。「なんとなく自分がカッコいいと思ったリデザイン」と「実際の顧客に話を聞き、観察してヒントを得て検証したリデザイン」のふたつが並んだ場合、どちらに説得力があるかは明白です。
改めて考えたいのは「誰のためにデザインを行使するのか?」「何を目的としたデザインなのか?」という、当たり前だけれど大切な視点です。これは何もリデザインに限った話ではなく、常日頃から心がけたい姿勢です。
さらに本書ではもう一歩踏み込んで「デザインはどのような影響をもたらすのか?」に言及しています。
多面体の裏側、デザインがもたらす影響
デザインに携わるほとんどの人は、きっと「世界をより良くしていこう」という理念のもと行動しているかと思います。しかし、だからといってデザインそのものが「疑いようもない良い行為」であるとは限りません。18章『対立を生み出すデザイン』で取り上げられている敵対的デザインや敵対的建築は、日本では「排除アート」の名でひろく認識されています。
- 排除アートと過防備都市の誕生。不寛容をめぐるアートとデザイン
- https://bijutsutecho.com/magazine/insight/23127
これを機能なき純粋なアートと呼ぶべきなのか? いや「~させない」という否定形の機能はもつ。
(略)
とすれば、排除アートは、作者が表現を行うアートではなく、ネガティブな機能をもつデザインなのだ。
「デザインはどのように世界をつくるのか」。本書のタイトルについて改めて考えさせられます。そしてこの掲示は、明確な危害がない(あるいは感じ取りにくい)「良いとされるデザイン」がもたらす影響の裏側へわたしたちを誘ってくれます。
例えば、会員数が2億人を超えているNetflix。これを読んでいる人の中にも加入している人は多いでしょう。面白そうな新作が配信されるとイッキ見してついつい夜ふかししちゃった、なんて経験も一度や二度ではないはずです。でもそれがNetflixの意図通りだとしたら?
NetflixのCEOであるリード・ヘイスティングス氏は過去に「ユーザーの睡眠時間も競合である」との発言をしています。
もちろん、作品が面白くなければイッキ見も夜ふかしもしませんから、前提としてNetflixの制作するコンテンツが面白いという事実はあります。ですが、作品そのものと作品の届け方は分けて考えられるはずです。
どんなにすばらしいデザインであっても、誰かには影響を及ぼす。たとえば、誰かを排除してしまうという点だけを取ってもそうだ。それは競合他社かもしれないし、仕事を失う人々、余計な仕事が増える人々、好きでもないのに新しいことを覚えざるをえなくなる人々かもしれない。(p.187)
「自分のデザインが世界にどのような影響を与えるのだろう?」と常に頭の片隅で考えるのは、デザインを専門的に駆使する者にとって必要な素養だとわたしは思います。
車、スマートフォン、SNS……世の中を大きく変えた製品やサービスは、生み出した当人たちですら予想できない影響を良きにつけ悪しきにつけもたらしました。12コマ目『不便益という発想』で紹介した無限スクロールも同様です。
こうした影響力に対する態度は、スケールの差はあれどわたしたちが携わるデザインにも同じものが求められます。そのすべてを予見するのは難しいですが、少しでも広い視野と長期的な視点を持つように努めれば、予防やカウンター、新たな改善策を持ち得ることは可能なはずです。
東京の京橋に設置されたベンチの突起を巡る田中元子さんのお話は、わたしたちが何を思考し、どのような姿勢で行動したらよいか、ひとつの示唆をあたえてくれます。
- 「排除ベンチ」抵抗した制作者が突起に仕込んだ「せめてもの思い」
- https://withnews.jp/article/f0210713003qq000000000000000W08k10201qq000023319A
テキストから姿勢へ、姿勢から行動へ
本書で学び得るのは知識や歴史、姿勢といった読んだ人の内に宿るものです。読んだ次の日から実践の場で役立てるのは難しいかもしれませんが、形成された姿勢はやがて行動へとつながります。いつか来るかもしれないその日のために、デザインに関わるすべての人に手に取ってもらえたら嬉しく思います。
巻末には参考文献一覧がちょっとおもしろいランキング形式で掲載されています(英語版はWEBで公開)。未読の本があればぜひ手に取ってみてください。特に第一位の『HELLO WORLD 「デザイン」が私たちに必要な理由』は、本書とあわせて読むとより見識を深められる一冊となっています。機会があればこの連載でも取り上げてみたいと思います。
それでは今日の読書補講はこのあたりでおしまいにしたいと思います。どうもありがとうございました。