文化を継いでゆくために。Dodici大河内愛加は「無理なく」挑む

わたしはファッションではなく、文化を売りたいんです。扱っている着物、伝統工芸、それに携わっている職人さん……生産背景を含めたあらゆるものが、文化を形作っている。そうした『文化』を、服やアクセサリーとしてはもちろん、雰囲気や背景も含めた自分の一部として『纏って』ほしい。

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デザインとは「文化の土壌」の「質への関与」である──。

原研哉は、デザインを「欲望のエデュケーション」と捉えてこう定義付けている

平易にもかかわらず、たっぷりと余韻を残してくれる表現だ。では、ここで言う「文化」とは何だろうか?

「デザイン」以上に複雑で多様なコンテクストを持ち、使う人や使われる状況によって意味するものが大きく移ろう「文化」という言葉。その輪郭を掴むべく、「文化を纏う」をコンセプトにイタリアと日本の素材を組み合わせたアイテムを展開するファッションブランド「renacnatta」を手がける大河内愛加に取材を申し込んだ。

1991年、横浜で育ち、15歳でイタリア・ミラノに移住。約10年間のイタリア暮らしを経た大河内が、2016年2月に立ち上げたrenacnatta。日本とイタリアで使わ“れなくなった”デッドストックの生地を組み合わせて用いる。現在はスカートやアクセサリー、メンズラインではネクタイやチーフなども展開。直近ではレザーアイテムも立ち上げた。

日本とイタリアの伝統文化を軽やかに組み合わせて「文化」を継いでいる大河内と話せば、「文化とは何か?」という茫漠とした問いにまつわるヒントを得られるかもしれない。そんな期待から、いま氏がミラノとの“二拠点居住”先として居を構えている、伝統文化が街の所々に根付く街・京都を訪ねた。

文化とは「普遍的な価値があるもの」

「観測史上初」の文字が何度もニュース紙面に踊り、およそ前例のない酷暑となった2022年夏。「うだるような」という表現が体感的にしっくり来る暑さの京都市内某所で取材の準備をしていると、建物の外に96年式ローバーミニのエンジン音が響き渡った。大河内の愛車だ。

涼しげな、でも親しみのあるアーモンドグリーンの車体が、猛暑の京都と好対照だ。ミニはかつて氏が小学生の頃、父が母に贈ったという思い出の車種。「古いクルマを乗り継いでいきたい」との想いで、2020年に購入を決めたという。

挨拶もそこそこに序盤から投げかけた問い──「ブランドのコンセプト『文化を纏う』に込めた想いは?」に対して、やわらかな物腰で紡がれた返答は、そんなミニへのスタンスと響き合うものだった。

大河内「わたしはファッションではなく、文化を売りたいんです。扱っている着物、伝統工芸、それに携わっている職人さん……生産背景を含めたあらゆるものが、文化を形作っている。そうした『文化』を、服やアクセサリーとしてはもちろん、雰囲気や背景も含めた自分の一部として『纏って』ほしい」

2020年に購入した、愛車の96年式ローバーミニ。かつて「小学生の頃に父が母へ贈った」車種で、大河内自身も「とても可愛くて、子どもながらにわたしもいつか乗りたいと思っていた」

このコンセプトは立ち上げ当初にはなく、その数カ月後に「降りてきた」という。

日本とイタリアのデッドストックを組み合わせていること、巻きスカートゆえにさまざまな体型の人にフィットすること、着物からインスピレーションを得たデザイン……ブランド立ち上げにあたり、アピールしたい要素は数多あった。しかし、それらを列挙するだけではおそらくブランドの価値観は正確に伝わらない、かつ「押し付けがましいのではないか」と感じていた。その中で生まれたのが、「文化を纏う」という表現だった。

大河内「そもそも『文化』という言葉は曖昧なもの。だからこそ、その意味は見た人に好きに感じ取ってもらっていいし、自分なりの解釈をしてもらっていい。余白のある表現が、ブランドに興味を持ってもらう取っ掛かりにもなりました」

とはいえ、「文化」という言葉の意味するところは、大河内の中では明確な像を結んでいるようだ。「自身にとっての『文化』とは?」と問うと、こう即答した。

大河内「わたしが魅力的に感じる文化とは、古くから残っている……つまり普遍的な価値があるもの。本当に美しいとか、機能的だとか、ものが残っていくのにはそれなりの理由があるはず。

(15歳から暮らしている)イタリアでは古くから残るものを大切にする精神が深く根付いていて、そういう価値観が好きだなと思いました。だから日本でも、着物や伝統工芸といった、昔から残っているものに光を当てて残していく、そんなブランドを作りたいんです」

築200年のアパート、4世紀に建てられた教会……ミラノの「衝撃」

とはいえ、大河内自身は、「古くから残るもの」に囲まれて生まれ育ったというわけではなかった。

幼少期を過ごしたのは、横浜の外れの新興住宅地。2022年現在でも開発から半世紀と経っていない、「古くから残るもの」がほとんど見当たらないようなベッドタウンで育った。

そんな時期に、大河内の価値観に大きな影響を与えたのが、父親の存在だ。

大河内「『自分にしかできないことをやれ』。父にはずっとそう言われて育てられました。経営者でビジネスの世界ど真ん中の人でしたが、絵を描くのもとても好きで。わたしや弟にはクリエイティブの素養を伸ばしてほしいと思っていたように感じています」

そうした父親のもとでさまざまな習い事に通う中で、大河内が特に強く惹かれ、のめり込んでいったのが造形教室だ。絵画から工作、立体造形まで積極的に取り組んだ。「先生にたくさん褒められた」ことも相まって、自然とクリエイティブ領域に興味を抱くようになった。

そして15歳の時、イタリア・ミラノへと移住する。「父のかねてからの夢で」と笑うが、経営していた会社を全て人に任せてイタリアに住みたい、子供たちをイタリアの学校に通わせたい……ずっとそう考え続け、ついには実行してしまったのだという。

移住後に大河内が目にした光景は、何もかもが衝撃的だった。

大河内「もう、世界観や価値観がガラッと変わる、ターニングポイントでした。例えばわたしが最初に家族と住んでいた家は、築200年のアパートメント。エレベーターは自分でドアを開ける方式で、途中で止まっちゃうこともよくあって。でもそれがただの古い建物ではなく、とても価値あるものとして大切にされているんです。

家の目の前には、4世紀に建てられた教会が普通にあったり。学校で美術史を習うときも、教科書に載っているものが学校の隣の教会にあって、『教科書を閉じて見に行きましょう』と出かけたり。それが当たり前という環境が、とにかく驚きでしたね」

「普遍的な価値」に触れるのみならず、ミラノではもう一つ「衝撃的」な体験があった。

通っていた美術高校でのことだ。毎年開かれていたクリスマスパーティーでは、チャリティー目的で生徒が作った作品を展示し、保護者によるオークションが行われていた。最終学年の時、「ジュエリー」というテーマで開かれた回で、大河内の作品にスポットライトが当たった。

大河内「わたしが作ったネックレスに、オークションで最高値がついたんです。作ったと言っても、私は蝋を使って型を作り、実際は職人さんがそれをもとにシルバーアクセサリーにしてくれたもの。しかも、特にコンセプトなどもなく『かわいいな』という気持ちで作っただけでした。

でも、それに対して目の前で次々と高値がついていく。しかも、そのお金は寄付されて、誰かの役に立つんです。この経験がすごく衝撃的で、『ものづくりって面白いな』と強く思いました。自分の作ったモノで、もしかすると誰かがちょっと幸せになっているかもしれない——そう思えたのは、とても大事な経験でしたね」

イタリアと日本、「アイデンティティ」たる両国の文化を結びつけた

古くから残る、普遍的な価値あるものとしての「文化」。そして、「ものづくり」。ミラノでの濃密な経験は、現在の活動を貫き通す軸を、形作っていった。

ただ、当時の関心の矛先は、あくまでも「イタリアの文化」にあった。当然ながら、周りはみなイタリア人。たまの休暇に日本に帰り、旧友と再会することは楽しかったものの、「敬語も使わなくなっちゃって忘れちゃうし、日本のこともあまり興味なくて、このままイタリア人としてミラノでずっと暮らしていくのかなと思っていました」。

そんな大河内が日本と出会い直した契機は、3.11だった。

大河内「震災が起きたとき、周りのイタリア人にすごく心配されて。その人たちにとっては、わたしが唯一知っている日本人で、『日本人=わたし』というイメージなのだなと実感しました。

それなのにわたしは、歴史にせよ文化にせよ生活にせよ、日本のことを全然知らなかった。『日本人って、みんなこんな感じなんだ』と思われないように、ちゃんと日本のことを知って伝えていかなきゃいけないなと、その時強く思ったんです」

美術高校を卒業した後は、Istituto Europeo di Design(ヨーロッパデザイン学院)に進学し、アートディレクションを専攻。同時に、ミラノにできたメイド・イン・ジャパン専門のショールームでのインターンも経験。経済産業省がクールジャパン戦略を推進していた時代背景もあり、日本文化との距離を縮めていった。

Istituto Europeo di Design卒業後は、引き続きミラノを拠点に、フリーランスのデザイナーとして活動する。イタリアの案件を受けつつ、リモートで日本の案件も受けていたそうだ。

一方で、制作における決定権が相手主体となるクライアントワークとの相性の悪さも感じるようになっていたという。かつてのように、父親に「それは愛加が本当にやりたいことなの?」と問われることもあった。

「決定権が自分にある仕事をして、自分のアイデンティティを持ちたい」。そんな気持ちが次第に強まっていく中、イタリアに移住してから10年の節目だった2015年、ブランドを立ち上げることを決める。そこで生み出したアイデアが、「イタリアンシルクと着物地を使ったスカートブランド」だった。

大河内「ブランドを立ち上げるときに、『わたしって何だろう?』『わたしにしか作り出せないものは?』と考えたんです。そこで思い至った自分の強みが、日本で生まれ育って、今イタリアに住んでいるということ。二つの国の『いいもの』をかけ合わせたものづくりをしようと思い、バンっとミックスしてみることにしました」

ただし、意外にもこの時大河内は「全てを賭けて自身のブランドを立ち上げた」というわけではなかったという。「何としても伝統を守る」のような強い意思から生まれたものではなく、「(イタリア移住)10周年記念イベントくらいの感じで。ここまで大きくなるとは想像もしていませんでした」とはにかむ。

ファッションデザインは未経験。だからこそ生み出せたもの

当初、大河内はファッションデザインに関しては完全に未経験だったという。しかし、そのまっさらな視点こそが、独自のアイデアを導く強みとなった。

大河内「経験がなかったからこそ、美しいものや綺麗なもの、かわいいもので勝負する自信はなかったんです。であれば、ただデザインが優れているだけでなく、それが生み出されることで着る人以外の誰かが幸せになったり、影響を与えたりできるブランドにしたい。そう思って、辿り着いたのがデッドストックを使うアイデアでした。

デッドストックという着想を得たのは、たまたま日本には着物がいっぱいあるけれど、仕立てられず眠っている反物がたくさんあると知ったから。そこに、二つの国の『いいもの』を掛け合わせるアイデアを載せて、イタリアのデッドストックのシルクと合わせようと考えました」

今でこそ環境配慮などの観点からデッドストックを活用したファッションアイテムも増えてきているというが、当時はまだ「サステナブル」や「SDGs」といった言葉の注目度も薄い頃。そこにいち早く着目できたのは、「デザインは言わずもがな、着る人以外にも影響を与えられるブランドになりたい」という想いがあったからこそ。これは立ち上げ当初から現在まで、あらゆる取り組みの背景に一貫して持ち続けているという。

そして“業界外”からの参入だったからこその視点は素材だけにとどまらない。業界の常識とも言える“サイクル”さえ大河内はひらりと飛び越える。

大河内「ファッション業界では毎年、新たに作った服をシーズナルのコレクション展開をするのが通例。ですが、わたしはそうした慣例も無視してきました。おそらく、『今回は西陣織で、次は久留米絣で……』と毎年使う素材を変えていけば、多分その都度いい感じにヒットしていくでしょう。

でも、わたしは同じ伝統工芸を繰り返し使うことにこだわりたかった。伝統工芸はもう本当に衰退していて、知らない人もどんどん増えている。だからこそ繰り返し出していくことで、まずは一種類でもそれを知り、身に着けてくれる人を増やすところから始めたい。

何より、一回作ったら、幅広い人に長く着てもらいたいんですよね。トレンドを追求するのではなく、長く展開でき、愛用してもらえるものづくりを大切にしているんです」

例えば、巻きスカートはどんな体型の人でも着やすく、年齢もあまり関係がないという。取材当日に大河内が着用していた丹後ちりめんのスカートも、20代から60代ぐらいまで幅広い年代の方が買い求めているそうだ。「そういう懐の広いデザインも、renacnattaらしさかなと」。

写真手前の単色生地が、丹後ちりめんを使ったマーメイドスタイルの巻きスカート。写真奥の柄入り生地が、デッドストックのイタリア製シルクを使った巻きスカート

できる範囲で、着実に、「文化」を継ぎ続ける

静かに淡々と、しかしその背後には確かな熱量を見え隠れさせながら、renacnattaが実現してきた前例なき挑戦について話す大河内。

とはいえ、その軌跡の裏には、業界外からの挑戦、なおかつ前例が存在しないがゆえの「実現の困難」は当然あった。特に、renacnattaを形作る重要なピースである「生地」の扱いはそれなりに難題だったようだ。

大河内「着物の幅は30〜40cmほどなのですが、一般的な生地は120~140cmなんです。『生地幅が狭い』という理由から縫製工場は受け付けてくれなかったりする。また、デッドストックの生地は弱いものも多く、縫製の時に破れてしまうなど扱う上での難しさもある。そんな背景から、当初はいくつもの工場に断られたりしました」

こうした課題を、大河内は一つひとつ地道に乗り越えていった。それを可能にしたのは、パートナーとして一緒にものづくりに挑んでくれた企業や人、一人ひとりと結んだ関係性だ。

大河内「例えば縫製に関しては、ソゥイング杉という山口県の工場の社長さんのおかげでなんとかなっています。まるで親戚のおじさんかのように(笑)、すごく親身で。わたしはいつもすごくややこしい生地を送るんですが、『どんな生地でもとりあえず送ってこい』というスタンスで、現場と密に連絡を取り一生懸命に対応してくださるので、安心して依頼できています。

その他にもたくさんの方々に助けられています。丹後ちりめんの織元さん、金彩作家さん……とにかくみなさん個性的でキャラが濃く、何より美しいものを生み出すことに全力を注いでくれる方ばかりなんです」

こうした仲間たちに支えられているからか、実現にあたっての苦労を聞いているはずなのに、大河内の語りからは「苦労した」という感覚があまり伝わってこない。

「強いて言うなら」と、コロナ禍にリリースした西陣織のマスクのエピソードを話してくれた。メディアで大大的に取り上げられたこともあり、受注生産で大きく時間を要し、顧客との期待値のズレに苦心したこともあったという。

しかし、これもあくまでも「強いて言うなら」。「あまり苦労したという感覚がないんですよね」と大河内。

大河内「何か本当に……着実にできる範囲でやっていたのが大きいかなと思います。いきなり大きくしようとはしていないんです。お店も持っていないし、組織の規模が大きいわけでもない。固定費が少ないぶん、着実に、でもフットワーク軽く、自分のできる範囲を広げてきた。

だからこそ、新しいチャレンジや失敗がたくさんできたし、いろいろな人を巻き込むこともできたのだと思います」

自身の「(イタリア移住)10周年記念」として立ち上げた当初から一貫する、大きな成果や達成すべき大きな目標に向けて動くのではなく、着実に目の前のことと向き合う大河内のスタンス。この無理のない姿勢こそ、普遍的な価値と定義づける“文化”を扱う上では重要なのかもしれない。

「文化を纏う」ためのメディアでありたい

少しずつ、でも着実に「文化を纏う」を広げる大河内。

とはいえ、これは「ゆっくり手の届く範囲だけで」といった悠長な姿勢というわけではない。無理のない姿勢は崩さぬまま、より大きな歩み、より長い射程を捉えて邁進しているのだ。

実際、直近でも大河内は新たな試みを重ねている。2022年8月には、ブランド初の試みとして、レザーアイテムを発表。デッドストックのレザーと、着られなくなった着物や伝統工芸金彩を掛け合わせた小物アイテムを展開していく。

もともとレザーアイテムの展開は考えていなかったというが、レザー工場との出会いを経て、考えが変わった。「レザーは畜産物の副産物であり、人が肉を食す限り、牛乳を飲む限り、レザーは生まれる」という話を聞き、レザーアイテムを作ることで本来なら捨てられてしまう“命”を「長く残るもの」にできると考え、renacnattaでの展開を決めたという。

2022年8月に発表した、ブランド初のレザーアイテム。写真手前が伝統技術「風琴マチ」「菊寄せ」を用いた名刺ケース、その奥がクラッチバッグ。また写真右手に添えられているのが、京都の伝統工芸「金彩」をアクセントに施したキーホルダー

さらに今後はこれまでのようなBtoCでの販売のみならず、例えば企業の制服やホテルの内装など、BtoBでの展開で伝統工芸の生産をより一層広げていくことにも意欲を示す。生産量が急拡大する可能性を踏まえると、ものづくりとしては容易ではない挑戦だが、その背景には一貫した想いがある。

大河内「とにかく日本の伝統工芸の人たちと一緒に、もっとたくさんものづくりをしていきたいんです。わたしは日本の伝統工芸がとても好きなので、それが廃れてしまうのが本当に寂しいし、悲しい。

もちろん、どうしてもなくなってしまうものはあるし、自らそういう選択をしている人たちを否定する気持ちはありません。でも今わたしが一緒に取り組みをしているような、何か残そうと必死に挑戦している人たちがいるのも事実。わたしはそうした人たちと一緒に、ずっとものづくりをしていきたいんです」

こうした伝統工芸に対する想いを聞いていると、あらためて冒頭の大河内の言葉──「ファッションではなく、文化を売りたい」──の意味するところが伝わってくる。氏にとってファッションは、あくまでも「文化を纏う」ためのメディアなのだ。

「renacnattaを通してこういうものを知ることができました」「こんな美しい伝統工芸が日本にあるなんて全然知りませんでした」……顧客からそうした声をよく聞くという。「文化」を伝えられる、メディアのようなブランドであり続ける。それこそが大河内の志だ。

大河内「例えば金彩なんて、普通は生きているうちで数回、格の高い着物を着たときに触るか触らないかくらいのものかもしれません。でも、renacnattaであれば、アクセサリーとして気軽に身に着けられる。西陣織だって、現代ではとてつもなく高級な帯に使われるイメージですが、スカートにすれば気軽に楽しめたりする。

そして、身に『纏う』ことで、言葉で伝えることができる。『それかわいいね、どこ?』と聞かれたときに、『これは金彩と言って、こういう風に作られていて……』と紹介してくれるお客さんが多いんです。それで金彩や久留米絣や西陣織など、そういうものがちょっとずつだけれど、広がっているのを感じています。少しずつでも知られることは、伝統産業が生き残るための力になる。そうした広がりを生み出すメディアのような存在であり続けたいですね」

前例なき挑戦を、たった7年で、ここまでしっかりと形にしてきた大河内。その軌跡は「開拓者」そのものだ。ただしそれとは裏腹に、インタビューを通して、大河内が無理をしていない、言い換えれば常に自然体のようなスタンスで言葉を紡いでいたのが印象に残った。「ちょっとずつ」「着実に」……思えば、そうした言葉がたびたび登場してもいた。

「あまり苦労したという感覚がない」という言葉に象徴されるように、無理のない範囲で、一歩ずつ歩みを進めてゆく。短期間で一気呵成な社会変革を志すスタンスとは、対照的だ。

しかし、「文化」──大河内の言葉を借りれば「普遍的な価値を持つもの」──とは一朝一夕に作り上げられるものではない。数十年から数百年と、一人の人間の生では到底太刀打ちできない時間軸で構築されていくものだ。

だからこそ、「伝統工芸が好き、なくなるのが寂しい」というピュアな気持ちを推進力とする大河内のように、自然な気持ちで無理なく取り組んでいくことが重要なのだろう。「文化の土壌」は、ゆっくりと耕されていくものなのだから。

Credit
取材・執筆
小池真幸

編集、執筆(自営業)。ウェブメディアから雑誌・単行本まで。PLANETS、designing、CULTIBASE、うにくえ、WIRED.jpなど。

撮影
今井駿介

1993年、新潟県南魚沼市生まれ。(株)アマナを経て独立。

編集
小山和之

designing編集長・事業責任者。大学卒業後、建築設計事務所、デザインコンサルでの編集ディレクター/PjMを経て独立。2017年designingを創刊。2021年、事業譲渡を経て、事業責任者。

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