グッドデザイン賞の歴史から紐解く、60年以上変わらないその本質
次の時代の“グッド”をつくるのは、既存の価値観では捉えられないものだったりする。いわゆるデザインだけではない。あらゆる領域の最前線を進む開拓者がいなければ、未来のデザインを見通すことはできない。
Cover Stories日本で唯一の総合的デザイン評価・推奨活動『グッドデザイン賞』。1957年に前身の『グッドデザイン商品選定制度』がスタートして以来60年以上、時代と共に変わり続けるデザインを捉え、その時々の“グッド”を定義し続けてきた。
その歴史には、60年以上にわたって変化を重ねたデザインの本質、そしてデザインの未来を捉えるヒントがあるのではないか。グッドデザイン賞を運営する日本デザイン振興会の矢島進二に、日本におけるデザインの潮流とグッドデザインの歴史を伺った。
輸出振興からはじまったデザイン振興の歴史
「デザイン」という概念はどこから始まったのか。その歴史を、一義的に定義するのは難しいかも知れない。ただ、近代デザインに関して言えば、産業革命を契機とする「アーツ・アンド・クラフツ運動」が主たる発端と言われることが多い。19世紀半ばのことだ。
では、日本ではどうだろうか。明治政府は1873年のウィーン万博に初出展した。これを契機に、陶磁器や工芸品などを中心に輸出が本格化し、海外向けに意匠を改良する動きが進んでいった。“ジャポニズム”として西洋を魅了した一連の動きは、日本におけるデザインの萌芽の一つと言えるだろう。
その後、1920年代には、思想家の柳宗悦を中心として「民芸運動」が行われ、1928年には小規模ながら国立の研究所も設立された。そうした活動を経て、デザイン振興が国策として始まったのは、戦後になってからだ。
特需に沸く1950年代、巷には模倣品が氾濫していたという。欧米の既製品をまね、精巧につくられた製品が当たり前に店先に並んでいた。デザイン振興の必要に迫られたのは、それらが輸出されるようになってからのことだ。
矢島「復興には、産業を発展させ外貨を稼ぐ必要がありました。幸いにして日本人は手先が器用でものづくりに長けていたので、西洋の技術を吸収してそれなりのものをつくることができたんです。ただ、輸出業者やバイヤーから『これと同じようなものをつくってくれ』と発注され、言われるがままにつくり輸出したところ、いわゆる“パクリ”として外交問題となってしまった。そこから、貿易を発展させるためにも、知的財産に対する社会的意識を向上させることが急務となったんです」
そこで1957年に特許庁内に意匠奨励審議会を発足。国としてデザイン振興策の議論をはじめた。委員には柳宗理をはじめ当時のデザイナーや建築家、評論家らが名を連ねたという。
活動内容として参照されたのが、ニューヨーク近代美術館(MoMA)が1950年代に開催した「グッドデザイン展」を契機に欧米で盛んとなった「グッドデザイン運動」だった。同年には、国として独創性が高く機能的な製品を選定する「グッドデザイン商品選定制度」をスタート。亀倉雄策がデザインした「Gマーク」がその選定商品の証となった。
管轄を通商産業省デザイン課(現在の経済産業省デザイン政策室)に移した後、1959年からは陶磁器や光学機器など特定品目については“Gマークなど認定を受けた製品のみ”が輸出できることに。国策として、デザインに力を入れる明確な意志を表した。
それに呼応するように、松下電器産業(現・パナソニック)や東京芝浦電気(現・東芝)をはじめとする企業もデザイン部門を発足、デザインに力を入れる機運が高まっていった。
矢島「50〜60年代は各地でデザイナー団体が立ち上げられました。日本インダストリアルデザイナー協会や日本デザインコミッティーなどもそのひとつです。1964年には東京オリンピックが開催され、亀倉雄策による一連のグラフィックは強烈なインパクトを与えました。そうした積み重ねもあり、デザインは世の中に少しずつ浸透していったんです」
産業と併走し進化・拡大し続けたデザイン
その土台のもと、70年代以降、デザインと産業との関係性はより密接になっていく。二度にわたるオイルショックこそあったものの、経済の急成長を背景に、グラフィックやプロダクト、ファッションなど幅広い分野でデザインは花開いていった。Made in Japanが国内外で支持され、輸出額も年々拡大、様々な産業にデザインは求められるようになっていった。
矢島「デザインが関わる領域は拡大し、インダストリアル、グラフィック……と領域も枝分かれしていきました。“デザイン”という広義な概念を細分化し、それぞれの分野で専門性を高めるようになっていったともいえますね」
70〜80年代は、まさに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代。メーカーを中心にその製品が国内外で売り上げを伸ばす中で、「今年はこの企業が受賞した」「じゃあウチも申請しよう」と、競い合うかのようにグッドデザインへの関心も高まる。
グッドデザインとして選定される商品も、テレビやエアコン、オーディオ、自転車や文房具、インテリア用品など、暮らし全般を網羅するようになった。
1985年には現在と同水準となる1390点がGマーク選定を獲得。競争力の一要素としてデザインが確立されるとともに、グッドデザイン側も、“なににデザインが寄与できるか”をより深く考えるようになっていったという。
矢島「1977年には部門別大賞を、1980年からは部門賞(現・金賞)を新設し、その時代を象徴するデザインをしっかりと見定めるようになっていきました。あるときは自動車、あるときは医療機器と旗印を立て、デザインがより深く関わるべき領域を示しました。その流れで1985年には福祉賞を新設。従来の消費財だけではなく、医療、教育といった公共的な分野を含め、より広い視野でデザインが価値発揮する機運を高めていきました」
経済成長から、豊かさの指標が変わる時代へ
そのトレンドが変化するのが90年代だ。バブルが崩壊し不況に突入していく中、刹那的な消費は敬遠されるように。それと同時に、エコロジーやユニバーサルといった新たな概念に注目が集まり、デザインが担う役割や領域も必然的に変化していった。
グッドデザイン側では、1991年に「地球にやさしいデザイン(後に「エコロジーデザイン」に改称」を新設。1997年からは「インタラクションデザイン」「ユニバーサルデザイン」とともに3つのテーマ賞を掲げた。これも社会の変化を反映している。
受賞作品をみても、表層的な意匠や機能性のみで判断するのではなく、社会課題解決や持続可能性を踏まえた価値観を重視するようになった。妊娠検査薬『チェックワン』(1994年グッドデザイン福祉賞)、障害者福祉作業ショップ「布目の里」「ユーダ」「グローバル」(1997年ユニバーサルデザイン賞)、既存建築物の再生提案 『宇目町役場庁舎』(1999年エコロジーデザイン賞)などはわかりやすい。
矢島「今思うと、1994年に『施設部門』を新設したのがターニングポイントだったかもしれません。当時、建築賞ではなく我々“グッドデザイン”ならではの評価基準は何かと議論になったんです。建造物は数十年、場合によっては数百年続くことになり得ますから、必然的に社会性を考えざるを得ない。今までは、自動車は自動車、家電は家電、と単体で見れば良かったのが、ロケーションや周辺住民、都市や社会との関係性など、より俯瞰した目で見なければ“グッド”を決めらない。そうした経験から、“グッド”に対する視座全体が変容していったのだと思います」
そして2000年代以降、産業の多様化・高度化に呼応し、デザインの関与する領域も多様となった。中でもインターネットとSNSの普及は大きい。情報流通量が飛躍的に伸び、人との関係性も再定義された。そうした変化の中で、デザインは一定の役割を果たしてきたといって間違いない。ただ、矢島はその中で変わらない部分への意識も重視する。
矢島「確かに、産業の変化とともにデザインのあり方や担う役割は変わってきました。社会と並走してきたともいえるでしょう。とはいえ、あくまでデザインは“人ありき”であることに変わりはありません。人の暮らしにとってどうプラスになるか、新たな価値や心地良さを提供していくか。実際に使う人のことを考え、ハードからソフト、サービス、仕組み、概念などを作り上げる。“変化”は理解しつつも、それと同時に、変わらない“本質”も見つめ続けなければいけません」
受賞製品の顔ぶれに時代が見える
貿易振興や啓蒙活動といった側面から、競争力の一部、そして社会や産業の変化を捉え、新たな価値を提示していく役割へ。社会と呼応しながら、グッドデザイン賞は提示する価値や役割を都度変えてきた。
では、今日のグッドデザイン賞を方向付けているものは何か。そう矢島に問うと、きっかけの一つに1998年の民営化を挙げた。
矢島「それまでは、国としてどの業界や企業にも平等でなければという制約がありました。それが民営化に伴い、『グッドデザイン選定制度』から『グッドデザイン賞』になったことで、“社会に本当に必要なデザイン振興”を第一に考えられるようになった。そのために様々なメディアや組織とコラボレーションしたり、自分たちでリスクを負った挑戦もできるようになったんです。そのタイミングで、私たち自身も“振興とは何か”を改めて問いながら活動をするようになりました」
その姿勢は、民営化直後の1999年に新設された「新領域デザイン部門」にも表れている。それまでの認識ではデザインとはみなされなかったであろう領域をもデザインと捉え、評価するスタンスを明確にしたのだ。
矢島「2000年に大賞となった服作りのメゾット『A-POC』や2005年のユニバーサルデザイン賞『ダイアログ・イン・ザ・ダーク』など、あえてボーダーにあるニューフロンティアみたいなカテゴリをつくったんです。新しいものこそ、既存領域や価値観で測れないし、測ってはいけない。2018年に大賞をとった『おてらおやつクラブ(貧困問題解決に向けてのお寺の活動)』がある意味象徴的で『グッドデザイン賞も変わりましたね』とよく言われましたが、実は20年以上前から意識的に領域を広げてきたんです」
- Good Design Award
- https://www.g-mark.org/activity/2020/outline.html
2020年の受賞した顔ぶれもまた、実に多様性にあふれている。レシピ本にサウンドロゴ、企業方針……地域で長年受け継がれてきた『大根やぐら』なんてものも。『東京都の新型コロナウイルス感染症対策サイト』や『Zoom』など、2020年を象徴するものもある。洗練されているプロダクトもあれば、一見すると未完成で「なぜこれが?」と思えるものもある。グッドデザインとして何を選び、何が選ばれていないか。そこにある種の意志が見えてくるようだ。
大賞に輝いた、自律分散型水循環システム『WOTA BOX』をはじめ、デジタルファブリケーションによる建築『まれびとの家』や家族型ロボット『LOVOT(らぼっと)』など、ベンチャーの躍進もめざましい。
矢島「審査副委員長の齋藤精一さんもよくおっしゃっていますが、担い手は大きく変わってきていると感じています。“イノベーション”と声高に謳っても、突破口を見いだせずにいる人や企業も少なくない。これまでの延長線上では新しいものは生まれずらいからこそ、新たなプレイヤー、新しい価値観に期待している。それを象徴するのが『WOTA BOX』の大賞受賞ではないでしょうか。代表の前田瑶介さんはまだ28歳、最年少の大賞受賞デザイナーです」
みんなで考えるから「ベスト」でなく「グッド」
矢島は、私たちがこうして受賞作品を見て、「こんなものも受賞するのか」「どうしてこれが大賞に選ばれたんだろう」などと考える行為そのものが、デザイン振興につながると話す。
矢島「グッドデザインはあくまで素材なんです。事例を提示し、『あなたはどう思いますか』と問いを投げかけることに意味がある。異論反論があっても構いません。思考を巡らせたり、ディスカッションしたりすることで、一人ひとりが当事者としてデザインを考える。それこそがデザイン振興なんです」
その根底には、この60年余の歴史で培われてきた、社会への信頼と期待がある。
矢島「ある意味、これだけの多領域の中から、一等賞を選ぶなんてナンセンスかもしれません。『あなたにとってのグッドは何か』と委ねてもいいくらい多様な価値観がある世の中で、『これが優れているんだから、おとなしく従え』みたいなのは気持ち悪いじゃないですか(笑)。だから多数決で○×をつけるのではなく、オープンにして、みんなで考えてもらう。だから、“ベスト”ではなく“グッド”なんです」
では、これからの時代における“グッド”とは、どのようなものだろうか。矢島は「私にもわからないですよ」と悪びれることなく言う。
矢島「基本的に、事務局は審査に関与しません。ルールのチェックはやりますが、投票には一切関わらない。その代わり、審査員をお願いする人を選定し、その方々に“グッド”を託すんです。業界のトッププレイヤーはもちろん、今の時代にフィットしている人、時代と呼応するような活動をしている人、未来をきちんと見ている人など。領域は様々ですが、その人たちが選ぶ“グッド”こそが未来を提示すると信じています」
実際、2020年は審査委員長をプロダクトデザイナーの安次富隆が務めたほか、KESIKIの石川俊祐、予防医学研究者の石川善樹、ロフトワークの林千晶やスマイルズの遠山正道などその顔ぶれは多種多様だ。
かつ、審査は投票による多数決ではなく、審査員同士が議論に議論を重ね、各ユニットの全会一致で受賞作を決めていく。多領域のプロフェッショナルがお互いの視点を共有し、納得するまで話し合わなければ“グッド”は選べない。
矢島「デザイナーだけでなく、さまざまなジャンルで活躍される方を選ぶことで、既存の人も刺激を受ける。同じ分野の人だけで固まっていると、視点が偏り、歴史に準じた評価になってしまいかねません。ただ、次の時代の“グッド”をつくるのは、既存の価値観では捉えられないものだったりする。
異分野の視点はすごく新鮮で、審査員同士議論する中では、他者に触発され意見や視点もどんどん変わっていくんですよ。いわゆるデザインだけではない。あらゆる領域の最前線を進む開拓者がいなければ、未来のデザインを見通すことはできませんから」